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愛とは繭を作ること
私・橋本和紗(はしもと かずさ)のネット恋愛の相手である江口安英(えくち やすひで)は、姉・橋本寧々(はしもと ねね)の宿敵だ。 安英と姉は高校時代、席が隣同士だった。姉は学年一位で、彼は学年二位だった。 お互いに気が合わず、顔を合わせれば張り合っていたくせに、結局は二人とも地元の同じ大学に進学した。 休みのたびに帰ってくると、姉は何日もかけて私にその「宿敵」の愚痴をこぼしていた。 ところが今回は、珍しく笑顔でスーツケースを引きながら帰ってきた。 母がからかうように言った。 「今回はあの人の話をしないのね?ずいぶん機嫌がいいじゃない。まさか、何かあったんじゃないでしょうね?」 姉は笑いながら、母に金のネックレスを一つ手渡した。 「これ、お母さんの未来の婿さんが買ってくれたの」 その場にいた私は、その金のネックレスを見た瞬間、心臓がドクンと跳ねた。 スマホを開くと、安英とのチャット履歴は3日前で途切れたままだった。 彼が私に尋ねていた。 【どの金のネックレスが一番きれいだと思う?】 私はじっくり見比べて、その中の一つを選んだ。 それが、母の手にあるものとまったく同じだ。 姉が私に目を向け、突然尋ねてきた。 「和紗、大学入試の結果はもう出たんでしょう?どこの大学に行くか、もう決めたの?毎日スマホばかりいじってないでよ! お母さん、和紗はまだしっかりしてないんだから、お父さんと二人でちゃんと考えてあげないと……」 母が手を振って何か言おうとしたとき、私は突然口を挟んだ。 「もう決めたの。S市に行きたい」 姉は一瞬ぽかんとした。 そして反射的に口を開いた。 「S市?そこって家から200キロ以上も離れてるんだけど」
チャプター (1)
第1章
私・橋本和紗(はしもと かずさ)のネット恋愛の相手である江口安英(えくち やすひで)は、姉・橋本寧々(はしもと ねね)の宿敵だ。
安英と姉は高校時代、席が隣同士だった。姉は学年一位で、彼は学年二位だった。
お互いに気が合わず、顔を合わせれば張り合っていたくせに、結局は二人とも地元の同じ大学に進学した。
休みのたびに帰ってくると、姉は何日もかけて私にその「宿敵」の愚痴をこぼしていた。
ところが今回は、珍しく笑顔でスーツケースを引きながら帰ってきた。
母がからかうように言った。
「今回はあの人の話をしないのね?ずいぶん機嫌がいいじゃない。まさか、何かあったんじゃないでしょうね?」
姉は笑いながら、母に金のネックレスを一つ手渡した。
「これ、お母さんの未来の婿さんが買ってくれたの」
その場にいた私は、その金のネックレスを見た瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
スマホを開くと、安英とのチャット履歴は3日前で途切れたままだった。
彼が私に尋ねていた。
【どの金のネックレスが一番きれいだと思う?】
私はじっくり見比べて、その中の一つを選んだ。
それが、母の手にあるものとまったく同じだ。
姉が私に目を向け、突然尋ねてきた。
「和紗、大学入試の結果はもう出たんでしょう?どこの大学に行くか、もう決めたの?毎日スマホばかりいじってないでよ!
お母さん、和紗はまだしっかりしてないんだから、お父さんと二人でちゃんと考えてあげないと……」
母が手を振って何か言おうとしたとき、私は突然口を挟んだ。
「もう決めたの。S市に行きたい」
姉は一瞬ぽかんとした。
そして反射的に口を開いた。
「S市?そこって家から200キロ以上も離れてるんだけど」
第1話
「昔から臆病なんだから、そんな遠くに一人で行ったら、誰も面倒を見てくれないでしょう」
姉は眉をひそめて言った。
鼻の奥がツンとし、私はうつむいて、くぐもった声で言った。
「もう決めたの。あっちが経済的にも発展してるし、卒業したあとも仕事を見つけやすいから」
私の様子がおかしいことに気づいた姉は、それ以上何も聞かなかった。
母も唇を結び、少し驚いたような顔をしていた。
何しろ、私はこれまで一度も県外の大学に行きたいなんて言ったことがなかったから。
涙をこらえきれなくなりそうで、適当にいくつか返事をすると、私は逃げるように自分の部屋へ駆け込んだ。
私と姉が生まれたのは、たった数秒しか違わない。
それなのに、幼い頃から今まで、姉はずっと私より輝いていた。
私より話すのが上手で、人に好かれるのも上手い。
勉強だって私よりずっとできて、何度も飛び級した。
親戚たちは姉の話になると、口をそろえて「こんな娘がいて幸せね」と私たちの両親を褒めた。
けれど、私の話になると、決まって気まずそうに笑う。
聞き分けがよくて、親孝行で、手のかからない子――それが私の数少ない長所だった。
私の成績では、せいぜい普通の二流大学に進学するのが精一杯だった。
一方の姉は、小学校から大学まで、いつだって人の輪の中心にいた。
そして、姉と安英が関わり始めたのも、その頃からだった。
高校3年間、ずっと隣の席だった。
そして、姉は学年一位で、彼は学年二位だった。
どちらも相手に負ける気などさらさらなかった。
安英は姉のことを気に入らなかった。
いつも自分より一つ上の順位にいる姉が気に食わないうえに、何かと偉そうな態度を取るのも腹立たしかったらしい。
けれど、誰の目にも明らかだった。
口では姉を嫌っているくせに、彼の視線はいつも自然と姉のほうへ向いていた。
休みになるたびに、姉は私をつかまえて、何日も安英の愚痴をこぼした。
「子供っぽいし、口は悪いし、いちいち鬱陶しいのよ。あいつ、頭おかしいんじゃない?成績だって大したことないくせに、毎日私に張り合ってくるんだから」
私はその隣で、黙って話を聞いていた。
何度も聞いているうちに、安英という名前が、少しずつ私の心の中に入り込んでいった。
その後、あるゲームのライングループで、一人の口の悪い人と出会った。
ネット上の名前は「Q」だ。
文字を打つのが速く、口も悪い。
グループ内の誰かと口論になれば、一歩も引かない。
私はそれが気に入らなくて、彼に一言返した。
するとその日の夜、私たちはグループ内で何十通ものメッセージを飛ばし合って言い争った。
最後には、彼のほうから私を友達登録してきた。
最初の一言はこう書かれていた。
【ずいぶん口が達者だったのに、どうした?もう続きはないのか?】
そのとき、私はまだ腹を立てていた。
だから、こう返した。
【頭おかしいんじゃない?】
すると、彼から疑問符が一つ送られてきた。
そして、こう続いた。
【へえ。気の強い女だな】
それから私たちは、さらに2日間、言い争いを続けた。
そして3日目、彼は突然、私に尋ねてきた。
【ゲーム、やる?】
第2話
私は返した。
【やらない】
すると、安英はまた尋ねてきた。
【じゃあ、なんで俺を追加した?】
私はむっとしながら文字を打った。
【そっちから友達申請してきたんでしょ?】
向こうから、しばらく返事がなかった。
やがて届いたのは、一言だけ。
【そう?】
その日、私はその【そう?】という言葉をじっと見つめて、なぜかふっと笑った。
それから私たちは、本当に少しずつ親しくなっていった。
ゲームの話から学校の話へ、学校の話から日常の話へ、そして日常の話から、毎晩寝る前の「おやすみ」へと、私たちの会話は少しずつ広がっていった。
彼は私が誰なのか知らなかった。
私と寧々が姉妹だということも知らない。
そして私は、彼と知り合ってから1ヶ月近く経った頃、彼が送ってきたある時間割や愚痴から、彼が安英なのだと薄々気づいた。
私はその名前を長いこと見つめていた。
心臓が激しく高鳴った。
それでも、何一つ聞けなかった。
こんなことをしてはいけないと分かっていた。
それでも、手放したくなかった。
ネットの中では、私は姉の影に隠れた、目立たない妹なんかじゃなかった。
彼と言い争うこともできた。
彼とふざけ合うこともできた。
そして、彼からメッセージが届くだけで、こっそり何時間も嬉しい気持ちでいられた。
当時、彼はいつも私のことを「橋本ちゃん」と呼んでいた。
私は、どうしてそう呼ぶのか尋ねた。
すると彼は、【呼びやすいから、なんか親しみがあるだろ】と答えた。
私はその言葉を見つめながら、耳のあたりが少しずつ熱くなっていくのを感じた。
けれど、私は知らなかった。
あの頃、彼が私を「橋本ちゃん」と呼んでいたのは、私自身をそう呼んでいたのか。
それとも、私を姉だと思っていたからなのか。
大学入試が終わったあと、彼は私に告白してきた。
彼は言った。
【橋本ちゃん、俺と付き合ってみない?】
私はその一行を見て、頭が真っ白になった。
しばらくしてから、恐る恐る返信した。
【私のどこが好きなの?】
安英からの返事は、すぐに届いた。
【気が強いところ。意地っ張りなところ。俺とよく言い争うところ。
一つ一つは全部、結構うっとうしい。でも、全部合わせると……なんだかんだ、俺はけっこう好きなんだよな】
スマホを握る私の手は、震えていた。
そして最後に、【いいよ】とだけ返した。
その日から、安英は私の恋人になった。
そして、私が誰にも明かせない、最も深い秘密にもなった。
私は最初、ずっと黙ってさえいれば、この関係はいつまでもこのまま続いていくと思っていた。
しかし3日前、安英が私に、金のネックレスの写真を何枚か送ってきた。
そして尋ねた。
【どれが一番いいと思う?】
私はベッドにうつ伏せになり、しばらく真剣に写真を見比べた。
最後に、一番シンプルで上品なものを選んだ。
【これかな。年上の人なら、きっと気に入ると思う】
安英はうなずくようなスタンプを返してきた。
そして、【俺もそう思う】と続けた。
そのときの私は、スマホを見ながらこっそり何度も笑っていた。
でも今、私は母の手にある金のネックレスを見つめながら、心が少しずつ奈落の底へ沈んでいくのを感じていた。
まったく同じものだ。
あれは、私に選んでほしかったわけじゃなかった。
私に、姉へのプレゼントを選ばせていただけだった。
だから、この3日間、彼が私に返信しなかったんだ。
忙しかったわけじゃない。
姉と一緒にいたんだ。
私は手を上げて、口をぎゅっと覆った。
それでも涙は、一粒、また一粒とこぼれ落ちていった。
そのとき、スマホの画面が突然光った。
安英からメッセージが届いた。
たった3文字だった。
【寝たか】
私はその3文字を見つめた。
胸が締めつけられるように痛んだ。
ついさっき、食卓で姉が笑いながら、それは自分の未来の彼氏からもらったものだと言っていた。
目の前には、もう事実がはっきり突きつけられている。
それなのに、彼は今になって、まるで何も起きていないかのように連絡してきた。
私は長いこと画面を見つめていた。
それでも、最後まで返信はしなかった。
代わりに彼のプロフィールを開き、彼を削除した。
ただ、友達リストから削除しただけで、ブロックまではしなかった。
せめて最後に、自分があまりみっともなくならずに済む逃げ道を残しておくように。
削除した瞬間、胸の中がすっと空っぽになった。
けれど、ほとんど次の瞬間、新しい友達申請が、画面に表示された。
第3話
申請の備考欄には、こう書かれていた。
【橋本ちゃん、何を拗ねてるんだ?】
指先が震えた。
涙が、ますます止めどなくこぼれ落ちていった。
安英はまだ、私がただ拗ねているだけだと思っている。
私は申請を承認しなかった。
そのままスマホの電源を切り、ベッドの上に放り投げた。
けれど、2分もしないうちに、また画面が光った。
また友達申請だった。
今度の備考欄には、【メッセージを見たら返信して】と書かれていた。
私は唇を強く噛みしめ、その文字を見つめた。
胸が、ズキズキと痛んだ。
以前、喧嘩をしたときもいつもそうだった。
私が彼を無視すると、彼は一通、また一通とメッセージを送ってきた。
口では強気なくせに、実際は誰よりも甘えん坊だった。
一度、わざと半日ほど返信しなかったことがある。
彼は十数通もメッセージを送ってきた。
最後には、我慢の限界に達したように、こんな一言を投げてきた。
【まだ無視するなら、警察に通報するからな】
私は返信した。
【何を通報するの?】
すると彼は言った。
【ネット恋愛の相手が行方不明になったって】
あのとき私は、笑いすぎて机に突っ伏し、しばらく顔を上げられなかった。
でも今は、彼から送られてくる友達申請を見つめても、目を開けていることさえつらかった。
なぜなら、私はようやく分かったから。
私だけに向けられていると思っていた彼のあの優しさも、あの甘えたような態度も、もしかしたら最初から、私のためじゃなかったのかもしれない。
あるいは、全部が私に向けられたものではなかった。
私はベッドの端で膝を抱え、スマホをマナーモードにした。
それでも、友達申請の通知は次から次へと表示された。
【どうした?】
【橋本ちゃん?】
【一体どうしたんだ?金のネックレス、気に入らなかった?】
【話してくれ】
最後の一通が届いたのは、それから10分後だった。
短い言葉だった。
【何かあったのか?】
私は目を閉じた。
涙がスマホの画面に落ちた。
こんな状況になっても、彼はまだ私のことを心配している。
なのに私は、彼を問い詰める資格すらなかった。
最初から最後まで、自分の正体を隠していたのは私だったから。
彼と姉が一体どうやって付き合うようになったのか。
どうしてこのネット恋愛が始まったのか。
私は何も知らない。
彼がどうして、私を姉のサブアカウントだと勘違いしたのかも分からない。
それでも、もうこれ以上続ける勇気はなかった。
翌朝、母に呼ばれて、私は進学先の願書を記入しに行った。
腫れぼったい目のまま部屋から出ると、姉はすでにソファに座っていた。
髪を洗ったばかりなのか、まだ半乾きだった。
彼女はうつむきながら、スマホを操作している。
私を見ると、眉をひそめた。
「泣いたの?」
私はすぐに目を伏せた。
「ううん。昨日、あまり眠れなかっただけ」
姉は数秒間、私を見つめた。
どうやら信じてはいないようだった。
それでも、それ以上は聞かなかった。
ただ、温かい牛乳を一杯、私の前に押し出した。
「先に飲みな」
私は小さく、「うん」と答えた。
私が腰を下ろしたばかりのとき、姉のスマホが突然鳴った。
姉は画面を一目見ると、表情をわずかに曇らせ、そのままスマホを切った。
母が隣で笑いながら尋ねた。
「彼氏?」
姉は鼻で笑った。
「本当にうるさいよ。昨日からずっと、訳の分からないことばっかり聞いてくるの」
私はカップを握る手に力を込めた。
母は興味津々といった様子で尋ねた。
「何を聞かれたの?」
姉は眉をひそめ、苛立った口調で言った。
「昔、私があいつに言ったことを覚えてるかとか、わざと知らないふりをしてるんじゃないかとか、サブアカウントを持ってないかとか。意味分かんない」
私は息をするのも忘れた。指先が一気に冷たくなった。
母はおかしそうに笑った。
「それだけあなたのことが気になってるってことでしょう。若い人の恋愛なんて、みんなそんなものよ」
けれど、姉は冷たく口元を歪めただけだった。
「誰があいつと付き合ってるのよ。好きなら勝手に好きでいればいいじゃん。私には関係ないし」
口では気にしていないと言いながら、それでも結局、彼をブロックすることはなかった。
私は、華やかでいてどこか冷たい姉の顔を見つめた。
すると、胸の奥に深い無力感が湧き上がってきた。
昔から、ずっとそうだった。
姉は何の努力をしなくても、誰からも注目を集めることができた。
それなのに私は、必死に隠してきたほんの少しの恋心さえ、最後には笑い話のようになってしまう。
昼になり、私は学校へ行って進学先の願書を記入した。
先生は私の成績表を手にして、しばらく眺めていた。
「本当に全部、県外の大学にするの?」
私はうなずいた。
「はい。決めました」
先生は眉をひそめた。
「この成績なら、地元の大学でも十分進学できるでしょう。何もそんな遠くまで行かなくても……」
私は目を伏せ、静かに答えた。
「家から離れたいんです」
曖昧な言い方だった。
けれど、私だけは知っていた。
私が離れたかったのは、この街にあるすべてだった。
安英も含めて……
願書を書き終えて学校を出ると、太陽がまぶしいほど照りつけていた。
私はうつむきながら校門へ向かって歩いていた。
そのとき、スマホが突然震えた。
新しい友達申請だった。
また安英だった。
彼は諦めきれなかったのか、別のアカウントから私を追加してきたらしい。
プロフィール画像は、真っ黒な一色だ。
備考欄に書かれていた言葉も短かった。
【無視するな】
私は校門の前に立ったまま、その文字を長いこと見つめた。
風が吹き、目が痛くなった。
それでも最後まで、申請を承認することはなかった。
そのままスマホの画面を閉じた。
夜、家に帰ると、姉はいなかった。
母に聞くと、出かけたらしい。
私は「うん」とだけ答え、自分の部屋へ戻って、進学先の資料を整理した。
けれど、しばらくすると、階下から車の音が聞こえてきた。
なぜか胸がドクンと跳ねた。
何かに導かれるように、私は窓辺へ歩いていき、外を覗いた。
家の前に、一台の黒い車が停まっていた。
その車のドアにもたれかかり、一人の青年がスマホを見ながら立っている。
横顔を見ただけで、私はすぐに分かった。
安英だ。
私は全身が凍りついた。
第4話
ほぼ同時に、リビングからドアの開く音が聞こえた。
姉だった。
彼女も階下にいる人に気づいたらしい。
玄関でしばらく立ち止まったあと、眉をひそめながら階段を下りていった。
私はカーテンの陰に隠れ、二人が木の下で話しているのを見つめた。
距離が遠すぎて、何を話しているのかは聞き取れない。
それでも、姉がかなり苛立っていることは分かった。
ただ腕を組み、冷たい顔で何かを言っている。
安英は彼女の前に立っている。
いつもはどこか気だるげで余裕のある彼の表情が、珍しく強張っている。
怒りを必死に抑えているようにも見えた。
何かを確かめようとしているようにも見えた。
やがて、彼が低い声で何かを言った。
姉の表情が、わずかに変わった。
数秒後、彼女は突然、冷笑を浮かべた。
そして、そのまま背を向けて歩き出した。
安英はその場に立ち尽くし、しばらく呆然としていた。
それから追いかけ、姉の手をつかんだ。
二人は街灯の下で抱き合った。
私は窓枠に手をつきながら、手足が冷たくなっていくのを感じていた。
その夜、安英から友達申請が届くことはなかった。
私もそのアカウントを完全に削除した。
こうすれば、私と安英の間にあった誰にも知られてはいけない関係も、一緒に消し去れるような気がした。
大学から入学通知が届くと、私はすぐに荷物をまとめてS市へ向かった。
出発の日、姉が私を空港まで送ってくれた。
彼女は私のスーツケースを押しながら、ぶつぶつ文句を言った。
「身分証とか、ちゃんと全部持った?着いたら家に連絡するのよ。大学の寮が良くなかったら言って。必要なものがあれば送るから」
私は小さく返事をした。
けれど、目の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
搭乗する直前、姉は突然、一枚のカードを私に押しつけた。
「生活費が足りなかったら、これ使いな」
私は慌てて首を横に振った。
「お金ならあるよ」
姉は眉をひそめ、きつい口調で言った。
「持ってけって言ってるんだから、持ってきなさい。向こうで無理するんじゃないよ」
私は鼻の奥がツンと痛くなり、その場で泣き出しそうになった。
姉は昔から、ずっとそうだった。
口は悪いけれど、本当は優しい。
大学生活が始まると、私はすぐに新しい暮らしに慣れていった。
新しいルームメイトも、新しい時間割も、新しい街も、全部少しずつ慣れていった。
姉からは、ときどきメッセージが届いた。
【風邪ひかないでよ】と聞いてきたかと思えば、【また電話に出なかったでしょ】と私を叱ることもあった。
ときには、安英とのことも話してくれた。
相変わらずあいつはあの調子で、腹が立つほど嫌な奴だとか。
気性が荒いうえに束縛も強くて、何かあるとすぐスマホをチェックしてくるとか。
私には分かっていた。
姉も、安英にまったく気持ちがないわけではない。
大学1年の後期が終わりに近づいた頃、大学で交換留学のプログラムが募集された。
海外で1年間過ごすものだった。
応募条件は厳しく、手続きも面倒だった。
ルームメイトに、どうして突然申し込もうと思ったのかと聞かれた。
私は書類を整理しながら、ただ一言、「外の世界を見てみたいから」と答えた。
本当は違った。
私はただ、もっと遠くへ行きたかった。
冬休みに入る前、母から電話がかかってきた。
早めに帰ってきてほしいという。
家族で話し合いたいことがあるらしい。
私は何のことなのか尋ねた。
母は電話の向こうで少し間を置いてから、笑いながら言った。
「帰ってきたら分かるわ」
なぜか胸の奥が重くなった。
私は帰省のチケットを買った。
けれど、帰る具体的な日時は誰にも伝えなかった。
家に着いたのは、夕方だった。
スーツケースを引いて玄関前に立ち、暗証番号を押そうと手を上げた。
すると、ドアが内側から開いた。
母だった。
まさかこんな時間に帰ってくるとは思っていなかったらしく、一瞬ぽかんとした。
それから、笑顔になった。
「和紗、帰ってきたの?どうして先に連絡しなかったの」
私が口を開こうとしたそのとき、リビングから聞こえていた話し声が、先に途切れた。
私は顔を上げた。
ソファには何人かが座っている。
父もいる。
姉もいる。
そして、姉の隣に座っていたのは――安英だ。
黒一色の服を着て、私の家のリビングに座っている。
彼の目の前には、お茶と贈り物の箱が置かれていた。
私の足が、その場でぴたりと止まった。
空気も同時に静まり返った。
そこにいる全員が私を見た。
最初に我に返ったのは姉だった。
彼女は立ち上がり、私のほうへ歩いてきた。
「どうしてこんな時間に帰ってきたの?」
そう言いながら、いつもと変わらない様子で私のスーツケースを受け取った。
私はどうしても安英のほうを見てしまった。
彼も私を見ていた。
その瞬間、彼の表情はとても淡々としていた。
それでも私は、彼の瞳の奥に一瞬だけ生まれた動揺をはっきりと見た。
けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように視線を逸らした。
母が隣で笑いながら言った。
「ちょうど安英くんと、寧々の婚約の話をしてたところなの。ちょうどいいところに帰ってきたわね」
婚約?
その言葉が胸に突き刺さり、息苦しくなった。
それでも私は、ただうなずくしかなかった。
小さな声で、「うん」と答えた。
姉は私の手を引いて、家の中へ連れていく。
「先に荷物を置いてきな」
私は動けなかった。
すると、ソファのほうから安英が突然口を開いた。
その声は淡々としていて、まるで何気ない質問のようだった。
「学校にはもう慣れたか?」
私の指先がこわばった。
「うん。まあ」
彼はうなずいた。
そして、何でもないことのように続けた。
「恋人はできたか?」
その言葉に、リビングにいた全員が一瞬固まった。
真っ先に母が笑い出した。
「あの子はね、臆病なんだから、そんな早く恋人なんて作れるわけないでしょう」
私は顔を上げ、安英を見た。
彼も私を見ている。
喉が詰まるような感覚がした。
暫く経ってから、私は静かに答えた。
「いないよ。そうだ、大学の交換留学に申し込んだの。来年は長期休暇も帰ってこないつもり」
その言葉を聞いた瞬間、家族全員の顔色が変わった。
そして、ソファに座っていた安英は、手にしていた湯呑みをぎゅっと握りしめた。