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十二年間、私は養女だと騙されていた
6歳のとき、交通事故ですべての記憶を失った私・水野詩織(みずの しおり)は、身寄りのない子どもになった。 けれど幸運にも、心優しい夫婦に引き取られた。 その日から私は、この家でいちばん聞き分けのいい子になった。 妹を大切にしなさいと言われれば、何でもいちばんいいものを譲った。 勉強を頑張りなさいと言われれば、ずっと学校で首席を取り続けた。 いい子でいなさいと言われれば、自分から家事を引き受け、少しの失敗もしないよう気をつけた。 それなのに、妹はいつも不思議な目で私を見ていた。 嫌われているのだと思い、また捨てられないよう、私はますます顔色をうかがうようになった。 大学入試を終え、留学ビザの手続きに必要な戸籍関係の書類を取り寄せたときのことだった。 窓口の職員は端末を何度も確認したあと、怪訝そうに私を見上げた。 「水野詩織さんの出生届に記載されているご両親は、水野正孝さんと佳代さんです。戸籍が変更された記録もありません」 私は初めから、孤児などではなかった。 12年間、恩を返さなければと必死に生きてきた日々は、すべて両親が仕組んだ嘘の上に成り立っていた。 書類を閉じると、不思議なほど心が静まった。 両親が用意した筋書きの中で、私は血のつながらない養女なのだ。 ならば、よそ者の私が出ていくのに、誰かの許しを得る必要もない。
チャプター (1)
第1章
6歳のとき、交通事故ですべての記憶を失った私・水野詩織(みずの しおり)は、身寄りのない子どもになった。
けれど幸運にも、心優しい夫婦に引き取られた。
その日から私は、この家でいちばん聞き分けのいい子になった。
妹を大切にしなさいと言われれば、何でもいちばんいいものを譲った。
勉強を頑張りなさいと言われれば、ずっと学校で首席を取り続けた。
いい子でいなさいと言われれば、自分から家事を引き受け、少しの失敗もしないよう気をつけた。
それなのに、妹はいつも不思議な目で私を見ていた。
嫌われているのだと思い、また捨てられないよう、私はますます顔色をうかがうようになった。
大学入試を終え、留学ビザの手続きに必要な戸籍関係の書類を取り寄せたときのことだった。
窓口の職員は端末を何度も確認したあと、怪訝そうに私を見上げた。
「水野詩織さんの出生届に記載されているご両親は、水野正孝さんと佳代さんです。戸籍が変更された記録もありません」
私は初めから、孤児などではなかった。
12年間、恩を返さなければと必死に生きてきた日々は、すべて両親が仕組んだ嘘の上に成り立っていた。
書類を閉じると、不思議なほど心が静まった。
両親が用意した筋書きの中で、私は血のつながらない養女なのだ。
ならば、よそ者の私が出ていくのに、誰かの許しを得る必要もない。
第1話
「お姉ちゃん、おかえり。ご飯なら残してあるよ。自分で温めてって、お母さんが」
水野美羽(みずの みう)はキッチンの入り口にもたれ、半分ほど残ったチョコレートアイスを手にしていた。表面のチョコがひとかけ、床に落ちた。
私は靴を履き替えると、かがんでそれを拾い、ゴミ箱に捨てた。
「うん。もう食べてきた」
本当は何も食べていなかった。役所を出てから、道沿いのベンチに3時間も座っていた。
「そっか」
美羽はアイスをひと口かじり、私の顔をしばらく見つめてから目をそらした。
あの目だった。
12年間、何度も向けられてきた目。
昔は嫌悪だと思っていた。そのうち同情なのだと思うようになった。けれど今なら分かる。
後ろめたかったのだ。
美羽は知っていた。
ずっと前から、すべて知っていた。
「お姉ちゃん、今日はどこに行ってたの?」
「ビザの書類を取りに」
「留学の?お母さん、海外の大学に受かったのはすごいけど、学費まではうちじゃちょっと……って言ってた」
美羽は食べ終えた棒をシンクに放り込み、水も流さなかった。
「家から出してもらう必要はないよ」
私は平坦な声で遮った。
「奨学金で全部賄えるから、家のお金は一円も使わない」
美羽は何か言いたそうに口を開いたが、そのとき玄関のドアが開いた。
母の水野佳代(みずの かよ)が大きな買い物袋を両手に提げて入ってきた。私を見ると、にこりと笑った。
「詩織、おかえり。ご飯は?」
「食べたよ」
「ちょうどよかった。これ、仕分けるのを手伝って。美羽が大学で使うノートパソコンや文房具、それから通学用のバッグなんかを買ってきたから、まとめておいてくれる?」
床に広げられた二つの袋の中身は、どれも美羽の大学生活のために用意されたものだった。
新しいノートパソコン、革張りの手帳、ブランド物のペンケース、通学用のトートバッグ、アルファベットの「L」が刺繍された化粧ポーチ。
私は品物を仕分け、畳めるものは一つずつ整えて、スーツケースに隙間なく詰めていった。
隣では、佳代がスマホで借りる予定の部屋の写真を見せながら、美羽と小型扇風機も必要か相談していた。
私の荷物については、誰も何も言わなかった。
いつ出発するのか、どの街に行くのか、どこに住むのかと尋ねる人もいなかった。
「そうだ、詩織」
佳代がふいに顔を上げ、天気の話でもするような口調で言った。
「海外へ行っても、ちゃんと家に連絡してね。血はつながっていなくても、これだけ長く育ててきたんだもの。お父さんも私も、あなたを家族だと思ってるから」
服を畳んでいた手が、一瞬止まった。
血はつながっていない。
佳代は、暗記した台詞を読み上げるようによどみなく言った。
12年間、何度聞かされただろう。
私が試験で一位を取るたび、佳代は言った。
「本当によく頑張ったわね。育てた甲斐があったわ」
美羽と意見がぶつかるたびにも言われた。
「あなたはお姉ちゃんでしょう。それに、私たちが引き取って育ててあげた恩を忘れないで」
第2話
恩。
口元がわずかに動いたが、笑い声は漏らさなかった。
「分かった、お母さん」
「それから」
佳代は声を落とし、美羽の部屋のほうに目をやった。
「向こうへ行っても、うちのことはあまり人に話さないでね。事情を知らない人に、複雑な家庭だと思われても困るから」
複雑な家庭。
私は、分かったと答えた。
夜、自分の部屋へ戻り、鍵をかけた。
4畳ほどしかない部屋には、シングルベッドと折り畳み机、小さなクローゼットしかない。
隣にある美羽の部屋は、その3倍ほどの広さだった。出窓も専用の本棚もある。
スマホを開き、必要なものをもう一度確認した。
パスポート、ビザの申請書類、入学許可証、キャッシュカード。
18歳の誕生日に自分で口座を作り、アルバイト代とコンテストの賞金を貯めてきた。残高は46万8000円。
片道の航空券を買うには十分だった。
書類をすべてリュックの底に入れてファスナーを閉じ、ベッドの下に押し込んだ。
明かりを消して横になる。
天井には、壁の隅から照明の脇まで延びる古い亀裂があった。
6歳でこの家へ来たばかりの頃、ベッドに横たわり、枝分かれしたその亀裂を何度も数えた。
あのとき佳代は、もう少ししたら業者を呼んで壁を塗り直し、かわいい部屋にしてあげると言った。
それから12年。
亀裂はまだ残っている。
廊下を駆けていく美羽の足音が聞こえ、やがて部屋から友人とビデオ通話をする笑い声が響いてきた。
「うん、全部お母さんが買ってくれた。洗剤までそろってるんだよ。すごくない?細かすぎて笑える」
私は寝返りを打ち、壁のほうを向いた。
この家で過ごすのも、あと数日だった。
……
「詩織、ちょっと来なさい」
翌朝、水野正孝(みずの まさたか)は食卓につき、お茶漬けと漬物を前にしていた。
向かいに座る美羽の前には、牛乳、目玉焼き、トースト、それに食べやすく切った果物が並んでいた。
私の席には何もない。
朝食がないわけではなかった。キッチンには前日のご飯と味噌汁が残っているから、自分でよそえばいい。
誰かが口にしたことは一度もない。それでも、それがこの家の決まりだった。
私がお椀を持って席につくと、正孝は軽く咳払いをした。
「佳代から聞いた。海外へ留学するそうだな」
「うん」
「どこの大学で、何を学ぶんだ?」
「ヘルシンキ大学。専攻はコンピューターサイエンス」
正孝は眉をひそめた。
「北欧か。ずいぶん遠いな」
「授業料は全額免除されるし、生活費は向こうで働けば賄えるから」
正孝は数秒黙り、指先でテーブルを叩いた。
「詩織、留学のことだが――」
「お父さん!」
美羽が突然口を挟み、スマホを差し出した。
「見て。地元の難関国立大、もう新入生の公式コミュニティができたんだって。入学式の日に一緒に行こうって、みんなで話してるの!」
正孝の関心は、たちまちそちらに移った。
「どれだ?見せてみなさい。今は怪しいものも多いんだから、何にでも入るんじゃないぞ」
「怪しくないって。大学公認のコミュニティだし……」
二人はスマホをのぞき込み、10分ほど小声で話し続けた。
私は黙って食事を終え、食器を洗った。ついでに、昨夜美羽がシンクに捨てたアイスの棒も拾ってゴミ箱に入れた。
「詩織」
寝室から出てきた佳代は、まだ髪を結ばず、肩に垂らしたままだった。
「昨日、ビザの手続きをするって言ってたでしょう。書類はそろったの?」
「そろったよ」
「じゃあ、手続きが終わったら帰りにショッピングモールへ寄って、美羽のスニーカーを買ってきて。以前買った靴がもう古くなってるの」
「分かった」
「23.5センチで白。高すぎるものはだめよ。6000円以内にしてね」
私はうなずいた。
食卓から美羽が身を乗り出した。
「お姉ちゃん、この前配信で見つけた、クッション入りのあのスニーカーがいい!商品ページ送るね」
「うん」
第3話
靴を履いて出ようとすると、背後から佳代が付け加えた。
「詩織、自分の留学用品はもう少し待ってね。今月は美羽の入学準備で出費が多いから。ビザが下りてから考えましょう」
佳代に背を向けたまま、私はドアノブに手をかけた。
「分かった」
ビザセンターでは2時間待たされた。
書類を提出すると、結果が出るまで7日から10営業日ほどかかると言われた。
礼を言って建物を出ると、歩道には強い日差しが降り注いでいた。
スマホが震えた。美羽から届いた商品ページだった。
白いクッション入りのランニングシューズ。値段は8400円。
6000円までと言われたのに、美羽が選んだのは8400円の靴だった。
差額の2400円は、私が出すと分かっているからだ。
いつもそうだった。
佳代が予算を6000円と決め、美羽はそれより高いものを選ぶ。足りない分は私が払う。佳代は尋ねず、美羽も口にしない。
それが何年も繰り返されてきた。
ショッピングモールに入り、売り場で商品番号を伝えた。
店員は、色あせた私のTシャツと、縁の擦り切れたキャンバススニーカーを見た。
それから、私が買おうとしている真新しい靴に目を移した。
「ご自分用ですか?」
「人に頼まれたものです」
「そうですか」
会計を済ませ、袋を提げて通りかかった旅行用品売り場に、機内持ち込み用のスーツケースが並んでいた。
セール品で、7600円のものが3800円になっている。
私は売り場の前に10秒ほど立ち止まった。
それから中へ入った。
「これをください」
留学のために、自分のために買った初めての品だった。
家へ帰ると、美羽は私の手から靴箱を奪うように受け取り、すぐに開けた。
「わあ、この靴!やっぱりお姉ちゃん、分かってる!」
新しい靴に履き替えてリビングを一周すると、鏡に向かってポーズを取り、写真を撮った。
「ありがとう、お姉ちゃん。いくらだった?お母さんから送ってもらうよ」
「6000円」
私が足した2400円には触れなかった。
これまでのすべてと同じように。
スーツケースはベッドの下のいちばん奥に隠し、古い服をかぶせておいた。
……
ビザを申請して3日目、家に客が来た。
佳代の妹で、私が叔母さんと呼んでいる小林美智子(こばやし みちこ)だった。
入ってくるなり、赤い包装紙に包まれた大きな箱を美羽に押しつけるように渡した。
「美羽ちゃん、難関国立大に受かったんだって?叔母さんから入学祝いよ。早く開けてみて」
中に入っていたのは、小さな四つ葉のクローバーが揺れる銀のブレスレットだった。
美羽は日の光にかざし、目を細めて笑った。
「叔母さん、ありがとう。すごくかわいい!」
美智子は美羽の頬を軽く撫でた。
「うちの自慢の大学生だもの。いちばんいいものを持たなくちゃね」
それからようやく、私に目を向けた。
「詩織ちゃんもいたのね」
「こんにちは、叔母さん」
「詩織ちゃんも、いい大学に受かったんでしょう?海外だったかしら」
佳代が横から答えた。
「ええ。この子が自分で申し込んだの。私たちは海外のことなんて分からないから」
美智子は「あら、そう」と笑っただけで、それ以上は尋ねなかった。
ソファに腰を下ろしてしばらく佳代と話していたが、二人の声は次第に小さくなった。
私はキッチンで果物を切っていた。扉は半分閉まっていたものの、話は一言残らず聞こえた。
「お姉ちゃん、詩織ちゃんの留学費用はどうするの?家で出せるの?」
「家のお金はいらないって。奨学金で全部賄えるそうよ」
「全部?あの子、本当に……よく頑張ったのね」
美智子はそこで言葉を切った。
「でも考えたことある?海外へ出て、そのまま家と縁を切られたらどうするの?」
「そんなことしないわ」
佳代はきっぱりと言った。
「詩織は昔から聞き分けがいいもの。恩を忘れるような子じゃないわ」
「でも……実の娘なんでしょう。遠い海外へ行けば、こっちの目も届かない。いつか家族だと思えないなんて言い出したら――」
「ありえないわ」
佳代が硬い声で遮った。
「正孝と私が12年も育てたのよ。あの子だって分かってる。それに、一度だって反抗したことがないのよ」
「だからこそ、少し怖いのよ」
美智子がティーカップを置き、さらに声を落とした。
第4話
「聞き分けがよすぎる子ほど、胸の内が分からないもの」
キッチンでは、果物ナイフがリンゴを切る乾いた音を立てていた。
リンゴを同じ大きさに8等分し、皿に並べて運んだ。
「叔母さん、どうぞ」
美智子は笑顔で受け取った。
「まあ、ありがとう。詩織ちゃんは本当にいい子ね」
一切れつまんでかじると、佳代に顔を向けた。
「私なら、海外へ行く前に一筆書いてもらうけどね。ほら、お姉ちゃんと正孝さんが年を取ったときは、ちゃんと面倒を見るって――」
「叔母さん」
声を上げた私に、美智子は目を瞬いた。
「なあに?」
「リンゴ、甘い?」
「……ええ、甘いわ」
「よかった」
私はキッチンに戻った。
背後では数秒の沈黙のあと、二人がさらに小声で話し始めた。それでも、ところどころ単語だけは耳に届いた。
誓約書。保証。もしものとき。育てた恩。
蛇口から流れる水は冷たく、手がしびれそうだった。
まな板を洗って手を拭き、勝手口から庭へ出た。
夏の風にはクチナシの香りが混じり、塀にはつる草がびっしり絡みついていた。
スマホが震えた。
新着メールが一通。
差出人は、ヘルシンキ大学の国際入学課だった。
【水野様。ビザ申請に必要な書類の準備が整いましたので、お知らせいたします……】
メールを二度読み、受信画面を閉じて閲覧履歴も消した。
深く息を吸い、勝手口からキッチンに戻ると、もう一皿の果物を運んだ。
「叔母さん、こっちもどうぞ。今日買ったメロンだよ」
美智子はメロンを受け取り、佳代に向かって笑った。
「ほら、こんなに気が利くじゃない」
佳代も笑った。
「だから言ったでしょう。詩織はちゃんと分かってるって」
その夜、美羽が私の部屋をノックした。
「お姉ちゃん、もう寝た?」
「まだ」
美羽は銀のブレスレットを手にしたまま、部屋に入ってきた。
「これ、叔母さんにもらったの。かわいいでしょう?」
私は一度だけ見た。
「うん、かわいいね」
美羽はベッドの端に座り、手首にブレスレットを当てた。
「お姉ちゃん……叔母さんの言い方、ちょっとひどいと思わなかった?」
「何が?」
「ほら、誓約書がどうとか言ってたこと」
声にはためらいがにじんでいた。
「部屋にいても聞こえたの。あんなふうに言うべきじゃないと思う」
私は何も言わなかった。
美羽はうつむき、指先でブレスレットをいじった。
「お姉ちゃん、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「本当に?」
「本当」
ほっとしたように立ち上がり、ドアのところで振り返った。
「お姉ちゃん、どこへ行っても私のこと忘れないでね」
廊下の明るく暖かな光を背に、美羽は戸口に立っていた。
その向こうにあるのは明るい廊下。私の背後にあるのは、4畳ほどしかない暗い部屋。
「うん」
美羽は笑ってドアを閉めた。
遠ざかる足音を聞きながら、ベッドの下の古着をどけ、スーツケースを引き出した。
蓋を開け、パスポートと入学許可証を入れた。
……
ビザが下りたのは木曜日だった。
誰にも言わず、一人で受け取りに行った。
ビザの貼られたパスポートを受け取ると、該当するページを何度も確かめた。
入国可能日が思っていたより1週間早く、次の火曜日には発たなければならない。
残された時間は、あと5日だった。
家へ戻っても、何一つ変わらなかった。
正孝はベランダで花に水をやり、佳代はキッチンでスープを作り、美羽はソファに寝転んでスマホを眺めていた。
「詩織、おかえり。手を洗ったら、野菜の下ごしらえを手伝って」
「分かった」
野菜をちぎっていると、佳代が何気なく尋ねた。
「ビザはいつ下りるの?お父さんから知り合いに聞いてもらおうか」
「大丈夫。自分で確認するから」
「それなら急いでもらいなさい。もうすぐ新学期でしょう」
「うん」
料理が並び、正孝が席につくと、まずローストチキンを美羽の皿に取り分けた。
「美羽、しっかり食べなさい。新学期は疲れるだろうからな」
第5話
美羽はひと口食べ、熱いとこぼした。
佳代は食べやすいよう小皿に移し、さらにスペアリブを一切れ添えた。
私の茶碗には白いご飯しかない。
大したことではない。箸は手元にあり、料理は目の前にあるのだから、自分で取ればいい。
ただ、最初の一口を私に取り分けようと思う人は、誰もいなかった。
12年間、一度も。
食事の途中で、正孝がふと思い出したように言った。
「詩織。海外へ行ったら、お前の部屋を片づけて、美羽のウォークインクローゼットにしようと思っている。この子は物が多くて、今の部屋には収まりきらないからな」
佳代もうなずいた。
「そうね。あの部屋は狭いし、収納用にちょうどいいわ」
私は口の中のご飯を飲み込んだ。
「分かった」
「私物は先にまとめておきなさい。あとでほかの物と一緒に捨てられても困るだろう」
「うん」
美羽の箸が止まり、私に目を向けた。
また、あの目だった。
私はうつむき、そのまま食事を続けた。
食後の片づけは私がした。
リビングでは、佳代と美羽がバラエティー番組を見て大声で笑っていた。
正孝は書斎で電話をしている。話しぶりからすると、仕事の相談らしい。
シンクの前に立ち、4人分の食器、スープ皿を二つ、鍋を一つ、蒸し器を一つ洗った。
流れる水の音が、テレビの笑い声をかき消した。
ポケットの中でスマホが震えた。
航空会社からのメッセージだった。次の火曜日、15時30分発の便が確定したという。
行き先はヘルシンキ。片道だけ。
蛇口を閉め、エプロンで手を拭くと、自分の部屋に戻った。
ドアを閉め、スーツケースをベッドの上で開いた。
持っていくものをすべて詰め始めた。
パスポート、ビザ、入学許可証、キャッシュカード、着替え、フラットシューズ、洗面用具。
それから、古い缶の箱。
これまでにもらった賞状や入賞通知が、すべて入っていた。全国数学コンテスト最優秀賞、地区の物理コンテスト優勝、英語スピーチ大会優勝。
どれ一つ、リビングの壁に飾られたことはない。
リビングの飾り棚に並んでいるのは、美羽のダンス検定の認定証、ピアノコンクールの賞状、学校からもらった表彰状だった。
私のものはずっと缶の中にしまわれ、クローゼットのいちばん下に押し込まれていた。
一瞬迷ったあと、缶をクローゼットに戻した。
持っていかない。
持っていっても意味はなかった。そこに記された実績は、この家で私が本当に欲しかったものを証明してはくれない。
機内持ち込み用の小さなスーツケースには、それほど多く入らなかった。
けれど、これで十分だった。
スーツケースをベッドの下に戻し、古着をかぶせた。
シャワーを浴びて横になると、廊下から、美羽が佳代におやすみを言う声が聞こえた。
「お母さん、明日ネイルに付き合って。入学前にかわいくしておきたい」
「いいわよ。午後から行きましょう」
「お姉ちゃんも連れていく?」
短い沈黙があった。
「詩織はビザのことで忙しいでしょう。邪魔しないほうがいいわ」
「そっか」
足音が消え、廊下は静かになった。
天井の亀裂を、壁の隅から照明の脇まで目でたどった。
6歳の頃には、枝分かれが7本あった。それから12年が過ぎ、今は9本に増えている。
亀裂は今も広がり続けていた。
けれど、もう数えることはない。
……
火曜日の午前4時30分。空はまだ暗かった。
服を着替え、ベッドの下からスーツケースを引き出した。
部屋のドアを開けると、廊下は暗闇に包まれていた。
美羽の部屋を通り過ぎるとき、ドアの隙間から青い常夜灯の光が漏れていた。
一度だけ足を止めた。
それでも、そのまま歩き出した。
玄関には、靴箱の上に家族写真が飾られていた。
正孝と佳代と美羽。3人が観光施設の入り口を背に並んでいた。
去年の連休に撮った写真だった。
撮影したのは私だ。
ドアを開け、夜明け前の風の中へ出た。
背後でドアがかすかな音を立てて閉まった。
誰も目を覚まさなかった。
私も、二度と振り返らなかった。