第1章
大学の合格通知書が届いたその日。
家族のグループチャットに、お母さんから二枚のチケットの画像が送られてきた。
同じリビングにいるというのに、わざわざチャットで送りつけてきたのだ。
一枚は、帝都へと向かう飛行機のチケット。
搭乗者の名前は、私、白石結月(しらいし ゆづき)。
もう一枚は、西の港湾都市へ向かう新幹線の普通席チケット。
こちらの名前は、藤堂杏奈(とうどう あんな)。
「今回は特別に、あなたにはわざわざ飛行機を取ってあげたのよ」
お母さんはわざとらしく大きなため息をつくと、これみよがしに言った。
「杏奈ちゃんなんて、窮屈な新幹線に乗っていくっていうのに。これで私たちがひいきしてるなんて文句、もう絶対に言わせないからね」
リビングの隅では、お兄ちゃん、蒼大(そうた)が杏奈の荷造りを手伝っている。
彼女の大好きな地元の高級なお菓子や特産品が、大きなトランク三つにこれでもかと詰め込まれていた。
蒼大は私を忌々しそうに睨みつけ、鼻で笑う。
「全くだ。飛行機代がどれだけ高いと思ってんだよ。お前は昔から嫉妬深くてがめついからな。杏奈のチケットにまで難癖つけるんじゃないぞ」
私はただ静かに俯き、何も言い返さなかった。
だって、私は昨夜見てしまったから。
お父さんの書斎の机に置かれていた、あのファイルを。
そこには、新築の家具付き高級マンションの売買契約書と、本当の家族旅行のスケジュール表が挟まっていたのだ。
そう、彼らは家族総出で、杏奈を大学まで見送りに行く。
さらには、彼女の通う大学の目の前にある高級マンションを買い与えていた。
契約書の名義は、しっかりと杏奈のものになっていたのだ。
杏奈は、両親の親友の忘れ形見だ。
彼女が我が家に引き取られてからの8年間。
私はずっと、この家でまるで透明人間のように扱われてきた。
昔の私は、両親からのほんのわずかな愛情を拾い集めたくて必死だった。
どうして杏奈ちゃんにはあって私にはないのと、泣いて叫んで訴え続けた。
でも、今はもう痛いほどわかっている。
誰からも愛されない子供は、いくら駄々をこねて泣き喚いても、甘いお菓子をもらうことなんてできないのだ。
私は静かにスマホの画面をタップした。
そして、国際的な特殊研究機関が支援する、特別エリート留学生プログラムの同意書に迷うことなく電子署名をする。
学士から博士課程まで一貫した8年間のプログラム。
その間は一切の帰国が許されないという、厳しい条件付きだ。
……ええ、あなたたちの望み通りにしてあげる。
私はこれから、二度と手の届かない遠い空の彼方へ飛び立つのだから。
第1話
「結月、聞いてんのか」
3つ目の大きなトランクのファスナーを乱暴に引き上げながら、蒼大が苛立ったように声を荒らげた。
「母さんがわざわざ飛行機のチケットを取ってくれたんだぞ。ありがとうの一言も言えないのかよ」
私はゆっくりと顔を上げ、蒼大を見た。
彼の額には汗がびっしりと滲み、着ているシャツの背中には大きな汗の染みができている。
それもそのはずだ。
今朝の朝食の席で、杏奈がぽつりとこぼした一言。
「向こうの大学に行ったら、もうこの町のお菓子も食べられなくなっちゃうな……」
たったそれだけの何気ない呟きを聞いて、蒼大は朝早くから動き出したのだ。
30度を超える茹だるような暑さの中、古い街並みの残る区画まで自転車を走らせ、あちこちの老舗を回って山のように銘菓を買い集めてきた。
帰宅してからも、中身が崩れないように丁寧に小分けにして箱に詰め直し、丸一日がかりで彼女のために精を出していた。
対して、昨日の私への扱いはどうだったか。
重い生理痛でベッドから起き上がれず、出かけるついでに鎮痛剤を買ってきてほしいと頼んだ私に対し、彼は心底面倒くさそうに吐き捨てたのだ。
「自分で動けるだろ。それくらいでいちいち俺をパシリにすんな」
――あの冷ややかな声と蔑むような目が、今でも胸の奥をチクチクと刺す。
私は伏し目がちに視線を落とすと、静かにスマホの画面をロックした。
「……ありがとう、お母さん」
感情を押し殺してそう告げると、お母さんがキッチンから綺麗にカットされたフルーツの乗ったお皿を運んできた。
お母さんは当然のように私の目の前を素通りし、一番美味しそうなメロンが乗った皿を杏奈の前にそっと置く。
「これからは少しは聞き分けのいい子になりなさいね。なんでもかんでも杏奈ちゃんと張り合おうとするんじゃないわよ」
その言葉を聞いた杏奈は、弾かれたように顔を上げた。
そして、戸惑ったような、ひどく申し訳なさそうな表情を作る。
「おばさん、結月お姉ちゃんにそんなこと言わないでください。
お姉ちゃん、帝都の大学に合格するためにあんなに頑張ってたじゃないですか。
だから、飛行機に乗るのは当然のことですよ」
……私は、杏奈が嫌いだ。
こういう風に、いつも物分かりのいい優しい子を演じて、私をかばうところが虫唾が走るほど大嫌いだった。
家族全員からの特別な愛情も、この家のお金も、すべての恩恵を涼しい顔で独占しておきながら。
まるで自分は何も欲しがっていないような、無垢で純粋な被害者のふりをするのだ。
この8年間、私は数え切れないほど泣いて、わめいて、不公平だと訴え続けてきた。
けれど、杏奈が大人しく従順に振る舞えば振る舞うほど、彼らの目には私がただの我がままで意地悪な姉にしか映らなくなる。
私の必死の訴えは、いつも彼女の涙や気丈な笑顔の前にかき消されてきた。
本当は、ただ少しでよかった。
彼らから、ほんの少しだけでも、愛してほしかっただけなのに。
……もう、いいや。
すっかり冷え切った心で、私は杏奈の芝居がかった気遣いをただ静かに見つめていた。
外はいつの間にか、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨になっていた。
ガチャリと玄関のドアが開き、お父さんが入ってくる。
彼は全身ずぶ濡れだったが、腕の中に抱えた紙箱だけは、まるで宝物のように濡らさないよう大事に庇っていた。
「杏奈ちゃん、見てごらん!ずっと欲しがってたものを買ってきたよ」
リビングにいた杏奈が、目を輝かせて駆け寄る。
「これ、SNSで話題になってる期間限定のケーキじゃないですか!でも、あのお店っていつも二時間待ちじゃ……」
お父さんは顔についた雨水を無造作に拭いながら、たまらなく愛おしそうに微笑んだ。
「なんのこれくらい。杏奈ちゃんが食べたいって言うなら、何時間並んででも買ってきてあげるよ」
ふと、部屋の隅に座っている私に視線が向いたのか、お父さんの表情が一瞬だけ不自然に引きつった。
「あー……結月、ごめんな。俺の番でちょうど最後の一個になっちゃってさ。次こそはお前の分も買ってくるからな」
その言い訳を聞いたお母さんが、ギロリと彼を睨みつけ、苛立ったように小声で責め立てる。
「あなたって人は本当に気が利かないのね!
近くのコンビニで適当な安いケーキでも買って、とりあえず人数分揃えればよかったのに。
また結月がヒステリーを起こして暴れたらどうするのよ!」
声を潜めているつもりなのだろうが、その冷酷な言葉は一字一句違わず、私の耳の奥までしっかりと突き刺さっていた。
私はただ静かに、平坦な声で答える。
「別に。いらないから」
私が喚き散らさなかったことがよほど意外だったのか、リビングに一瞬、不気味なほどの静寂が落ちた。
無理もない。
以前の私なら、彼らからのほんの少しの愛情を巡って、目を真っ赤にしながら食ってかかっていただろうから。
どうして杏奈ちゃんにはあって、私にはないの。
そう叫んで、泣いて、暴れるのがいつものパターンだった。
お母さんが杏奈に可愛らしい新作のワンピースを買ってくれば、私も同じものが欲しいと駄々をこねて床を転げ回った。
私にはまったく似合わないデザインで、滑稽なピエロみたいに見えるとわかっていても、意地になってその服を着ていたのだ。
でも、もう奪い合うのにはすっかり疲れてしまった。
昨日の夜。
喉が渇いて水を飲みに起きた私は、お父さんの書斎の前を通りかかった。
ドアがほんの少しだけ開いていて、そこからお母さんの声が漏れ聞こえてきたのだ。
「例の、あの子の進学先にあるマンション、手続きは終わったわよね?
杏奈ちゃんを女の子一人で遠方の学生寮に入れるなんて、心配でたまらないわ。
もしルームメイトにいじめられでもしたらどうするの」
お父さんがそれに優しく答える。
「ああ、全部済ませたよ。名義もしっかり杏奈ちゃんのものにしてある」
「よし、それじゃあ家族みんなで新幹線に乗って見送りに行って、あの子の新居の飾り付けをしてあげよう」
お母さんはふと、深いため息をついた。
「このことは絶対に結月には内緒よ。あの子が知ったら、またキーキー騒ぎ立てるに決まってるんだから」
ドアの外でそれを聞いていた私は、全身の血が凍りつくような寒気を感じていた。
……そうか。
誰からも愛されない子供は、いくら泣いて喚いたところで、甘いお菓子をもらうことなんて絶対にできない。
ただ、うるさいと煙たがられ、疎まれるだけなのだと、ようやく悟ったのだ。
第2話
「結月お姉ちゃん、このケーキ、半分こにして一緒に食べましょう?」
杏奈が綺麗に切り分けたケーキの皿を差し出してきたが、私は見向きもせずに背を向け、自分の部屋へと歩き出した。
「いらない」
背後から、すかさず蒼大の嫌悪感もあらわな声が聞こえてくる。
「放っておけよ、杏奈。あいつのあの捻くれた性格は今に始まったことじゃないだろ」
自室に戻るなり、私はガチャリとしっかりとドアの鍵をかけた。
ドア一枚を隔てた向こう側から聞こえてくる、あの和気あいあいとした団欒の笑い声を完全に遮断するように。
部屋の隅にある勉強机に向かい、一番下の引き出しを引く。
そこには、この8年間で彼らから「もらった」プレゼントがすべて収められている。
たとえば、お父さんが出張のついでに適当に買ってきた、観光地によくある安っぽいキーホルダー。
あれをポンと渡された日、私は飛び上がるほど嬉しくて、握りしめたまま一晩中眠れなかったっけ。
でも後になって知ったのだ。
同じ日、お父さんが杏奈に渡したのは、キラキラと輝く有名ブランドのブレスレットだったことを。
お母さんが「流行遅れだから」と押し付けてきた、毛玉だらけのマフラー。
蒼大が機種変更したときにお下がりで渡された、バッテリーのいかれたスマホ。
彼らはいつもそうだった。
杏奈に高価なプレゼントを買ってあげるたび、罪滅ぼしのように、こうやってゴミ同然のものを私にあてがって誤魔化してきたのだ。
引き出しの一番奥には、古いアルバムがしまってある。
ページをめくると、そこに写る家族写真の主役は、いつも可愛いドレスを着た杏奈だった。
両親と蒼大に真ん中で囲まれ、まるでお姫様のように幸せそうに笑っている。
対する私は、いつも一番端っこに追いやられていた。
何枚かは蒼大の背中の影に隠れて顔の半分しか写っていなかったり、ピントすら合っていないものもある。
以前の私なら、それでも捨てられなかっただろう。
彼らからの愛情の欠片だと信じて、宝物のように大事にしていたから。
けれど今は違う。
私はそれらを乱暴に掴み取ると、ゴミ袋の中に容赦なくすべて放り込んだ。
翌朝。
せっかちにドアをノックする音とともに、お母さんの声が響いた。
「結月、開けなさい。もうすぐ新生活が始まるんだから、ショッピングモールに足りないものを買い出しに行くわよ」
私と杏奈、二人の新生活のためだと言いながら。
彼らの目に、私の姿なんて微塵も映ってはいなかった。
高級コスメのフロアで、お母さんは杏奈の手を優しく引いていた。
「杏奈ちゃん、西の港湾都市は海風で肌が荒れやすいからね。
敏感肌のあなたのために、おばさん徹夜でリサーチして、このブランドのスキンケア一式が一番いいって見つけてきたのよ」
振り返れば、お父さんが何着もの最高級シルクのパジャマを抱えて駆け寄ってくる。
「実家を離れての生活なんだから、我慢なんてしちゃ駄目だぞ。肌に直接触れるものは、一番着心地のいいものを選びなさい」
買い物を終えてショッピングモールを出る頃には、蒼大は杏奈のために新調した二つの巨大なトランクを引きずり、その両腕には数え切れないほどのブランドの紙袋をぶら下げていた。
そして、私の手にあるのは、たったひとつのシンプルなキャップだけ。
「杏奈ちゃんがもう被らない帽子がたくさんあるじゃない。それをお下がりでもらえばいいでしょ?わざわざ新しいのを買う必要なんてないわ」
お母さんにそう鼻で笑い飛ばされたから。
結局、このキャップすらも、私が自分で貯めたなけなしのバイト代で買ったものだった。
ショッピングモールのエントランスを出ると、広場に停まっていたキッチンカーから、焼きたてのクレープの甘い匂いが風に乗って漂ってきた。
杏奈がふと足を止め、目を輝かせる。
「わあ、いい匂い……」
その一言で、蒼大は躊躇なく自分の持っていたトランクを私の方へと押し付けた。
「結月、お前これ見張っとけ。俺が杏奈に買ってきてやるから」
巨大なトランク二つと杏奈のボストンバッグが、すべて私に押し付けられる。
「あっ、お兄ちゃん、私自分で持つよ。お姉ちゃんも自分の荷物があるのに悪いよ」
杏奈はそう言って、私が支えていたトランクの一つに手を伸ばしてきた。
だが、彼女の指は持ち手をしっかりと掴む前に滑り落ちた。
「あっ……!」
一番重いトランクがスロープの傾斜に沿って、勢いよく滑り落ちていく。
私が立っていたのは、ちょうど階段のすぐそばだった。
「危ない、どけ!」
蒼大の怒鳴り声が響いたが、もう遅かった。
トランクの硬い角が私の膝に容赦なく激突する。
バランスを崩した私は階段を数段転げ落ち、咄嗟についた手のひらを花壇のレンガの角で思い切り擦り剥いた。
目の前が真っ暗になるほどの激痛が走る。
トランクに引っ張られるようにして半歩よろめいた杏奈も、足首を捻ってその場にペタンと座り込んでしまった。
彼女は瞬時に目に涙を浮かべ、ポロポロとこぼし始めた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい!私、わざとじゃなくて……っ」
――次の瞬間。
両親と蒼大は、地面に倒れ込んで血を流している私を文字通り「飛び越えて」、杏奈の元へ駆け寄った。
「ああ、足首がこんなに腫れて!痛いでしょう?もう、この子はなんて無理ばっかりして……!」
お母さんはしゃがみ込み、パニックになったように杏奈の足元をさすっている。
お父さんは恐ろしいほど険しい顔つきになり、杏奈を抱き起そうとした。
「無理に動かすな。骨に異常がないか、すぐに病院で診てもらおう」
クレープ屋に向かっていたはずの蒼大も血相を変えてすっ飛んでくると、私には目もくれず、杏奈を背中に背負い上げた。
「病院だ!すぐ病院に連れて行くぞ!」
私は冷たい階段に座り込んだまま、ただ呆然と彼らを見ていた。
膝はズボンが破れてひどく擦り剥けているし、レンガで切った手のひらは皮が深くめくれ上がり、生々しい血がボタボタと滴り落ちている。
あまりの痛みに震える唇で、私は絞り出すように呟いた。
「……お母さん」
その声に反応したお母さんは、弾かれたように振り返り、親の仇でも見るかのような目で私を睨みつけた。
「今度は何なの!?杏奈ちゃんがこんなに痛がってるのに、あなたって子はまた邪魔する気!?」
杏奈を背負って車へ向かいながら、蒼大も冷酷な声で私を罵倒する。
「荷物一つまともに見てられないのか!お前がトロトロ突っ立って邪魔するから、杏奈が転んだんだろうが!」
蒼大の背中で、杏奈が涙に濡れた長い睫毛を伏せて首を振る。
「蒼大お兄ちゃん、お姉ちゃんを責めないで……私がどんくさかっただけだから……」
その殊勝な言葉に、お母さんの怒りはさらにヒートアップした。
「こんな時まであの子を庇うなんて!あなたは本当に優しすぎるから、いつも馬鹿を見るのよ」
お父さんがすでに車のドアを開け、大事な宝物を扱うように杏奈を後部座席に乗せていた。
そして、ようやくチラリと私を振り返り、ひどく面倒くさそうに言い放つ。
「結月、お前は自分でタクシーでも捕まえて帰りなさい。俺たちは杏奈ちゃんを病院へ連れて行くから」
「私だって……手が、痛いのに……」
青ざめた顔で、震える唇から必死に声を絞り出したけれど。
バタンッ!
無情に閉められた車のドアの音が、私の微かな声を完全に掻き消した。
排気ガスを残して走り去る車を、私はただ一人、血の滴る手を押さえたまま見送ることしかできなかった。
第3話
一人でタクシーに乗り、近くの救急病院へ向かった。
当直の医師は、私の傷だらけの手のひらを見るなり険しい顔をした。
「傷口が深いですね。これは縫合処置が必要です」
彼は私の背後をちらりと見て、気遣うように言った。
「局所麻酔もしますし、破傷風のワクチンも打つので少し痛みますよ。……付き添いの方はいないんですか?」
私は込み上げてくる涙を必死に堪え、平坦な声を作って短く答えた。
「みんな、忙しいので」
家に着いたのは、夜の8時を回った頃だった。
玄関の前には、なぜか人だかりができていた。
校長先生、担任の先生、それにカメラを持った広報担当らしき人たちの姿まである。
私の姿を見つけるなり、お母さんがものすごい剣幕で近づいてきて、私の腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと、今までどこをほっつき歩いてたのよ!
電話には出ないし、メッセージも無視して。こんなに大勢の人をお待たせして……!」
周囲に聞こえないよう、歯を食いしばって声を押し殺しながら咎め、彼女は私の手首を強く握りしめた。
そこはまさに、さっき縫ったばかりの手のひらのすぐ近く。
「痛っ……」
私が思わず顔をしかめて息を呑むと、お母さんはようやく私の手に巻かれた分厚い包帯に気がついた。
担任の先生が心配そうに歩み寄ってくる。
「結月さん、その手、どうしたんだい?」
私が口を開くより先に、お母さんが慌てて私の肩を抱き寄せた。
「あはは……ちょっと親子喧嘩しちゃいまして。うちの結月は昔から意地っ張りで困るんですけど、本当はとっても素直でいい子なんですよぉ」
肩に回された腕から、お母さんの愛用している高級香水の匂いがふわりと漂ってきた。
昔は、この匂いが大好きだった。
お母さんが杏奈を抱きしめるたび、私はすぐそばに立って、この匂いをこっそり胸いっぱいに吸い込んでいたのだ。
まるで自分も一緒にお母さんに抱きしめられているんだと、惨めな錯覚をするために。
でも今は、鼻腔を突くその香りに、吐き気すらを覚える。
私は無言のまま、お母さんの腕をそっと振り払った。
お母さんの見事な愛想笑いが、その瞬間にピキッと固まった。
気まずい空気を誤魔化すように、校長先生が咳払いをして、立派な目録の入った桐箱を差し出してきた。
「結月さん。本日は、学校および特別教育財団からの吉報をお持ちしました。
今回の全国統一試験において、君の成績はこの指定特区でトップテンに入るという、開校以来の素晴らしい快挙でした。
つきましては、財団より『最優秀特待生』として認定され、特別進学支援金として二百万円が給付されます」
担任の先生も誇らしげに頷く。
「君のスコアがずば抜けて高くてね。財団の方で特待生の認定手続きに少し時間がかかってしまい、通知が今日になってしまったんだ」
校長先生が笑顔で付け加える。
「本来なら学校で大々的に表彰式を行いたいところですが、上層部からあまり大袈裟にして君の負担にならないようにとお達しがありましてね。
こうして直接、認定書と支援金の目録をお渡しに伺った次第です」
お母さんは、目尻に深いシワを寄せて満面の笑みを作った。
「まぁ!うちの結月は昔から本当に手のかからない子でして。勉強のことで親が口出ししたことなんて、一度もないんですよ」
――ええ、確かにその通りだ。
私は今まで、彼らの手を煩わせたことなんて一度もない。
学校の三者面談だって、私はいつも一人で教師と向き合ってきた。
だって彼らは三人揃って、血の繋がらない杏奈の保護者として面談に出席していたのだから。
帝都大学を優秀な成績で卒業した蒼大にしてもそう。
私が勉強を教えてほしいと頼んでも、彼は冷たく言い放つだけだった。
「スマホ持ってるだろ?解き方くらい自分でネットで検索しろよ」
そのくせ、杏奈が相手となると、彼はどれほど基礎的な問題でも嫌な顔一つせず、時間を忘れて何度も何度も手取り足取り教えていた。
ある日、どうしても腑に落ちなくて聞いたことがある。
「どうして、私には教えてくれないの?」
すると蒼大は、さも当然だと言わんばかりに胸を張って答えたのだ。
「お前はもう十分に成績がいいだろ。今さら俺が教えたところで、どうせ上がる点数なんてたかが知れてる。
それに比べて杏奈はまだ基礎ができてない。俺が少し見てやるだけで、あの子は一気に伸びるんだ。教えがいがあるだろ」
だから、自分の労力や時間を割くなら、杏奈の方が価値がある。
あの身勝手で理不尽な言葉を突きつけられたあの日から、私はもう、この家族に何かを求めることを完全に諦めたのだった。
……いいや、本当はまだ、ほんの少しだけ期待していたのかもしれない。
もし私がもっと優秀になれば。 蒼大のように、誰もが認める超名門の帝都大学に合格しさえすれば、両親ももう一度、私の方を向いてくれるんじゃないかって。
そんな愚かで無邪気な幻想を抱いていた。
けれど、全国統一試験の結果が出て、私が指定特区でトップテン入りを果たし、国内のトップ大学から特待生枠のオファーが学校を通じて殺到した日。
両親は、どこか他人事のようにこう言っただけだった。
「よく頑張ったわね。進学先は、自分の行きたいところを勝手に選びなさい」
褒め言葉は、たったそれだけ。 頭を撫でてくれることも、一緒に喜んでくれることもなかった。
その一方で、彼らは杏奈の成績――中堅大学のボーダーラインになんとか引っかかる程度の点数――については、なんと三日三晩も徹夜して進路指導の資料を読み漁っていたのだ。
彼女が少しでも有利な条件で入学できるよう、ありとあらゆるルートを血眼になって探していた。
「結月さん」
担任の先生の声で、私はハッと我れに返った。
先生は、重みのある封筒を私の手のひらにしっかりと押し付けた。
「この中には、支援金が振り込まれる君の本人名義の通帳が入っている。
暗証番号の通知書も同封されているし、君しか触れないものだ。
二百万円は大金だからね。大学に行ったら、自分に投資して、決してひもじい思いなんてするんじゃないぞ」
「はい。ありがとうございます」
私が深くお辞儀をして、その封筒を自分のカバンにしまおうとした、その瞬間だった。
横から伸びてきたお母さんの手が、私の手首をガシッと掴んだ。
「先生、ご心配なく。この通帳は、親である私たちが責任を持って計画的に管理いたしますから」
お母さんは、まるで良妻賢母の鑑のような完璧な笑顔でそう言い放った。
やがて先生たちが帰宅の途につき、玄関のドアが閉まった途端。
お母さんの笑顔は嘘のように消え去り、凄みを利かせた声で私に手を差し出した。
「さあ、その通帳、こっちに渡しなさい」
「……」
「子供が大金なんて持っていたら、悪い大人に騙されるに決まってるじゃない。お母さんが安全な口座に移して、預かっておいてあげるから」
私はカバンの紐をギュッと握りしめ、一歩後ずさった。
「いらない。私のお金だから、自分で管理する」
私のささやかな反抗に、蒼大が眉間に深いシワを寄せて舌打ちをした。
「お前な、家族がたかが二百万ぽっちを横取りするとでも思ってんのか?相変わらずひねくれてんな」
お母さんも、あからさまに不機嫌な顔で声を荒らげた。
「あなたも杏奈ちゃんも、これから新生活でお金がかかるのよ!
私がこの家のお金を一括で管理して、二人に一番適切な形で分配してあげるって言ってるのに、何が不満なの!」
――適切な分配。
その白々しい言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、ピンと張り詰めていた何かが音を立てて千切れた。
私は、ソファでオロオロしている杏奈を指差した。
「西の港湾都市に買った、あの新築の高級マンション。……あれも『適切な分配』なの?」
第4話
一瞬にして、リビングの空気が凍りついた。
お母さんの目に浮かんだ明らかな動揺は、ほんの一秒で激しい怒りへと変わった。
「結月!あんた、お父さんの書斎の書類を盗み見たわね!?いつからそんな卑しい子になったの!」
杏奈の顔から、さぁっと血の気が引いていく。
彼女は大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、慌てて立ち上がった。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……っ!
私、おじさんとおばさんがマンションを買ってくれたことも、私の名義になっていたことも、本当に知らなくて……
もしお姉ちゃんが嫌なら、私、あんなマンションいらない……っ!」
「杏奈ちゃん、謝る必要はない」
お父さんが低く威圧的な声で遮った。
「あのマンションは、俺たちが自発的に君の将来のために用意したものだ。君が気にする必要は一切ない」
お母さんも、杏奈を庇うように私の前に立ち塞がった。
「結月、たかだかマンション一つでガタガタ言わないの!
あなたは私たちと血の繋がった実の娘なんだから、将来はこの家の財産をきちんと残してあげるわよ。
でも、杏奈ちゃんは違うでしょ?この子には両親がいないの。
私はこの子のお母さんが息を引き取る時、ベッドの横で『杏奈ちゃんのことは一生私が守る』って誓ったのよ。
だから特別な配慮をして当たり前じゃない!」
私は、熱を失った冷たい目で、興奮して捲し立てるお母さんを見つめ返した。
そして、かすれた声で静かに問いかける。
「……じゃあ、私は?」
お母さんは一瞬、ポカンと口を開けた。
「は?あなたは何よ」
「私には、両親がいるの?」
その言葉に、蒼大が顔を真っ赤にして激昂した。
「結月、お前ふざけるのも大概にしろよ!親不孝にも程があるぞ!
毎日この家で飯を食って、快適な部屋に住まわせてもらって、今度の移動だってわざわざ飛行機のチケットを取ってもらったくせに!
『私には両親がいるの?』だと?どの口がそんなこと言ってんだ!」
私はグッと唇を噛み締めたが、心の奥底に澱のように溜まっていた感情は、もう抑えきれなかった。
「……私がこの家に食べさせてもらってる?快適な部屋?」
私は自嘲気味に笑い、彼らを一人一人見据えた。
「高校三年間、私が住んでいたのは学校の安いボロ寮よ。その寮費だって、全部自分で勝ち取った奨学金で払ってきた。
特別進学クラスの合宿費だって、下級生の家庭教師のバイトをして自分で稼いだのよ。
去年の冬、私が急性の盲腸で倒れて緊急入院した時。お母さんに電話したらなんて言ったか覚えてる?
『杏奈ちゃんが不安がって夜泣きするから、そばを離れられないの』って言って、一度も見舞いに来てくれなかったじゃない」
私は、血の滲んだ分厚い包帯が巻かれた手を、彼らの目の前にゆっくりと持ち上げた。
「ついさっきだってそう。私が手を深く切って五針も縫う怪我をしたのに、あなたたちは私に見向きもせず、杏奈ちゃんだけを連れて行った。
ねえ、お母さん。あなたが杏奈ちゃんのお母さんに立てた立派な誓いのために、どうして私が犠牲にならなきゃいけないの?」
お母さんの顔から、さぁっと血の気が引いた。
彼女は何度か口をパクパクと動かしたが、反論の言葉が見つからないようだった。
その時、お父さんの顔がみるみるうちに夜叉のように冷酷に歪んだ。
「いい加減にしろ!」
怒鳴り声がリビングに響き渡る。
「結月、お前は今日、度が過ぎているぞ!」
……ああ。
私はふと、何年も前の出来事を思い出していた。
杏奈が初めてこの家にやってきた日。
お母さんは、一番日当たりのいい私の部屋を明け渡すように言った。
「杏奈ちゃんは身内を亡くしたばかりなの。お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」
それからすぐに、私が大好きだったピアノのレッスンも辞めさせられた。
「ピアノの音を聞くと、杏奈ちゃんがお父さんを思い出して泣いてしまうのよ」
ずっと楽しみにしていた私の誕生日パーティーも、前日になって突然中止になった。
「明日が杏奈ちゃんのお父さんの命日なの。そんな時にパーティーなんて開いたら、あの子が可哀想でしょ」
彼らは事あるごとに言った。
「結月にはお父さんとお母さんがいるけど、杏奈ちゃんには私たちしかいないのよ」と
でも、違う。
この8年間、彼女は私の両親を完全に奪い取った。
私には、もう何一つ残されていなかった。
私はカバンから、先ほど先生からもらった二百万円が入った通帳を取り出し、ローテーブルの上にバンッと叩きつけた。
「もし、この二百万円がどうしても欲しいなら」
私は凍りつくような冷たい声で言い放った。
「私に二度と干渉しないという『絶縁の誓約書』にサインしてよ」
その瞬間、お父さんが猛然と立ち上がった。
パァァァンッ!!
鈍い音と共に、私の頬に焼け付くような痛みが走る。
顔が横に弾かれ、口の中に鉄の味が広がった。
「随分と偉くなったものだな!少しばかり金を手に入れたからって、親に向かってその態度はなんだ!」
お父さんは肩で息をしながら、私をゴミでも見るかのように見下ろした。
「いいだろう!そこまで言うなら、もうお前のことなんて一切面倒は見ない!今後、この家からお前には一銭も出してやらないからな!」
その日を境に、我が家は完全に二つの世界に分断された。
一つは、和気あいあいと新生活の準備に勤しむ、仲睦まじい四人家族の世界。
そしてもう一つは、誰からも見向きもされない、透明人間の私の世界。
でも、何も寂しくはなかった。
だって私は昔からずっと、この家の中で彼らの輪の外側を漂うだけの、ただの異物だったのだから。
あっという間に、旅立ちの朝がやってきた。
私がキャスター付きのスーツケースを引いて一階に降りると、ダイニングテーブルでは杏奈が優雅に朝食をとっていた。
私と目が合うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「お姉ちゃん、おはよう。出かける前に、一緒に朝ごはん食べよう?」
私は反射的にキッチンのカウンターに目をやった。
調理台の上は綺麗に片付けられており、私が食べるための余分な食器や料理など、最初から用意されていなかった。
……相変わらず、薄っぺらい優しさだこと。
私は彼女に一言も返すことなく、静かに背を向けた。
玄関のドアを開けて外に出る。
「いってらっしゃい」の声は、誰からも聞こえなかった。
空港の特別待合室では、すでにプログラムを主催する研究機関の担当官が私を待っていた。
「白石さん、決意に揺らぎはありませんね?
契約通り、これからの8年間、学士から博士課程に至るまでのすべての学費と生活費は我々が全面的に負担します」
担当官は、手元の分厚いファイルを見ながら念を押した。
「ただし条件として、プログラム期間中の途中帰国は一切認められません。そして学業を修めた後は、必ず当機関の特別プロジェクトで貢献していただきます。よろしいですか?」
私は迷うことなく、深く頷いた。
「はい。覚悟はできています」
搭乗ゲートに向かう前、私は最後にもう一度だけ、スマホの画面を開いた。
家族のグループチャットには、何件もの未読メッセージが溜まっていた。
開いてみると、お母さんから送られてきた何枚もの写真。
新幹線のホームで、杏奈の新しいトランクを囲み、両親と蒼大が満面の笑みでピースサインをしている。
四人の輝くような笑顔が、画面越しにチカチカと眩しかった。
私は静かにスマホの電源を落とした。
そして、本体からSIMカードを抜き取ると、近くのゴミ箱へ躊躇なく投げ捨てた。
轟音と共に、機体がふわりと宙に浮く。
窓の外を見ると、飛行機は分厚い雲を突き抜け、どこまでも続く青く澄んだ空の彼方へと飛んでいくところだった。
さようなら。
ここから先は、彼らの手の届かない遠い遠い世界。
私はもう二度と、後ろを振り返らない。
――その頃。西の港湾都市へ向かう新幹線の車内。
お母さんは手元のスマホの画面をタップして時間を確かめると、チッと舌打ちをした。
メッセージアプリの画面は、出発前から一つも更新されていない。
「結月ったら、もう帝都に着いた頃だろうに。無事に着いたっていう連絡のひとつも寄こさないなんて。
本当に私たちを親の仇みたいに思ってるのね」
呆れたようにため息をつくお母さんに、お父さんが少しバツの悪そうな顔で応じた。
「……まあ、これまで確かに俺たちはあの子を放ったらかしにしすぎたよ。あの子が怒って言っていたことも、まったく理不尽ってわけじゃない。
杏奈ちゃんをマンションに送り届けて落ち着いたら、俺たちも帝都へあの子の様子を見に行ってやろう」
その時だった。
向かいの席で退屈そうにスマホのSNSを眺めていた蒼大が、突如として短い悲鳴を上げた。
「……っ、母さん!!」
「どうしたの、急に大きな声を出して」
「これ、見ろよ……っ!!」
蒼大の手は、まるで痙攣しているかのようにガクガクと激しく震えていた。
彼が差し出したスマホの画面には、赤字で大きく強調された緊急速報のニュースが映し出されていた。
「【緊急速報】本日午前十時十五分、南州空港発・帝都行きのスターライン航空4922便が、天竜連峰の上空でレーダーから消失。
関係当局によれば、同機は山中に墜落した模様。現在、救助隊が緊急出動し現場へ急行中――」