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夫の後悔が届く頃、私は海を越えていた
鷹取宗介(たかとり そうすけ)と三枝千景(さえぐさ ちかげ)の離婚調停は、丸1年にわたってもつれ、いつしか誰もが噂する話題になっていた。 1年の間に開かれた調停は3回。業界内では、千景がまだ宗介への思いを断ち切れず、わざと離婚を引き延ばしているのだと言われていた。 1回目の調停で、千景はブランドのオリジナルデザイン画と特許、著作権をすべて自分に帰属させ、2人で立ち上げたオーダーメイド店も全店舗譲り受けたいと主張した。デザインが会社の生命線だと知りながら、宗介は苦渋の末に譲歩し、店舗とデザイン関連の権利を半分ずつ渡すことに同意した。 2回目の調停では、2人で暮らしていたリバービューの高級マンションを受け取らないと言い出し、代わりに宗介名義の高額なオフィスビルを丸ごと要求した。弁護士からも無理のある条件だと諭されたが、宗介は辛抱強く話し合いに応じ、同等の価値を持つ資産との交換なら可能だと申し出た。 3回目の事前協議では、さらに条件を上乗せし、宗介がブランド経営から永久に退き、今後10年間ジュエリーデザイン業界に関わらないよう求めた。あまりにも法外な要求に、周囲は彼女が宗介を屈服させようとしているのだと呆れた。 それでも宗介は感情を荒らげず、会社の持株比率を整理する時間が欲しいと穏やかに伝え、最後まで譲歩する姿勢を崩さなかった。 どれほど理不尽な条件を突きつけられても、宗介は一つずつ話し合いに応じた。その姿は、かつての情に免じて千景を受け入れ、耐え続けているように見えた。 同業者の中には、このまま離婚調停が長引けば、いつか復縁の話し合いに変わるのではないかと冗談を言う者までいた。
チャプター (1)
第1章
鷹取宗介(たかとり そうすけ)と三枝千景(さえぐさ ちかげ)の離婚調停は、丸1年にわたってもつれ、いつしか誰もが噂する話題になっていた。
1年の間に開かれた調停は3回。業界内では、千景がまだ宗介への思いを断ち切れず、わざと離婚を引き延ばしているのだと言われていた。
1回目の調停で、千景はブランドのオリジナルデザイン画と特許、著作権をすべて自分に帰属させ、2人で立ち上げたオーダーメイド店も全店舗譲り受けたいと主張した。デザインが会社の生命線だと知りながら、宗介は苦渋の末に譲歩し、店舗とデザイン関連の権利を半分ずつ渡すことに同意した。
2回目の調停では、2人で暮らしていたリバービューの高級マンションを受け取らないと言い出し、代わりに宗介名義の高額なオフィスビルを丸ごと要求した。弁護士からも無理のある条件だと諭されたが、宗介は辛抱強く話し合いに応じ、同等の価値を持つ資産との交換なら可能だと申し出た。
3回目の事前協議では、さらに条件を上乗せし、宗介がブランド経営から永久に退き、今後10年間ジュエリーデザイン業界に関わらないよう求めた。あまりにも法外な要求に、周囲は彼女が宗介を屈服させようとしているのだと呆れた。
それでも宗介は感情を荒らげず、会社の持株比率を整理する時間が欲しいと穏やかに伝え、最後まで譲歩する姿勢を崩さなかった。
どれほど理不尽な条件を突きつけられても、宗介は一つずつ話し合いに応じた。その姿は、かつての情に免じて千景を受け入れ、耐え続けているように見えた。
同業者の中には、このまま離婚調停が長引けば、いつか復縁の話し合いに変わるのではないかと冗談を言う者までいた。
第1話
最後の調停が始まる30分前、千景は家庭裁判所の建物に隣接するコンビニの前で待っていた。
ふと目をやると、木の下に宗介が立っていた。手には白玉ぜんざいのカップがあった。
宗介はそれを安西朋花(あんざい ともか)の手にそっと渡し、彼女の口元についた餡を優しく拭った。
「心配するな。今日の調停は、どんな展開になっても対応できるようにしてある。千景が何を要求しても受け入れるつもりだ。金額も株もどうでもいい。少しでも早く離婚を成立させて、朋花と落ち着いて暮らせるなら、それでいい」
千景の胸が鋭く痛んだ。
大学で過ごした4年間、宗介は同じように白玉ぜんざいを手にし、冷ましながら一口ずつ食べさせてくれた。
夕方から明け方まで、図面を引く彼女のそばで夜を明かしてくれたこともあった。
10年をともにした末、宗介は別の女に走った。それでも千景は思い出にすがり、自分を欺きながら、1年間この結婚を手放せずにいた。
冷たい風が吹き抜けた。
千景は無意識に左手に目を落とした。
結婚指輪は、今も指の根元にはまっていた。長年つけ続けたせいで、皮膚には薄い赤い跡が残っていた。
顔を上げ、宗介の手を見た。
かつて2人の名前を刻んだ結婚指輪は、とうに姿を消していた。
代わりにはめられていたのは、細身のシンプルなリングだった。
朋花の指にあるものと、まったく同じデザインだった。
この1年、必死に保ってきた最後の意地が、一瞬で崩れ落ちた。
千景が指輪をそっとなぞると、目の奥が熱くなり、涙が不意に手の甲に落ちた。
手を上げ、急いで頬の涙を拭った。
指に力を込め、10年間はめ続けたダイヤの指輪を外した。
そのまま、そばのごみ箱に静かに落とした。
硬い音が小さく響いた。
今日の調停が、きっと最後になる。千景はそう思った。
千景は脇に置いていたバッグを持ち上げ、2人の横をまっすぐ通り過ぎて、裁判所の入口へ向かった。
「千景」
宗介に呼び止められた。
千景の足が、ほんの一瞬止まった。
宗介は足早に追いついた。
「朋花は妊娠4か月だ。遅くとも年末までには、きちんと離婚を成立させたい。いつまでも引き延ばしていたら、最後にはお互いみっともないことになる」
千景はゆっくり振り返り、わずかに膨らんだ朋花の腹に目を向けた。
宗介は千景が何かすると思ったのか、すぐに朋花を背後にかばった。
だが千景は、2人を数秒見つめただけで、何も言わなかった。
かすかに笑い、視線を外して、そのまま裁判所に入った。
全員が席に着いた。
宗介側の弁護士は、想定される条件をまとめた分厚い資料を机に広げた。誰もが、また長い駆け引きになると身構えていた。
千景は顔を上げた。
「離婚に同意します。必要な書類には署名します、明日そちらに送ります」
宗介は大きく目を見開いた。
「本当に……それでいいのか?」
なぜか彼が残念がっているように見えた。
そんな錯覚を抱く自分がおかしくて、千景はかすかに笑った。目に浮かんだ涙を隠すように顔をそらし、静かな声で答えた。
「ええ。これでいい。もう、互いに関わるのはやめましょう」
千景は立ち上がると、誰よりも先に裁判所のロビーを出た。
背後から、宗介が朋花に囁く穏やかな声が聞こえた。
「手続きが全部終わったら、数か月後には式を挙げよう。どんなドレスが着たい?海辺でも古城でも、好きな場所で写真を撮ればいい。全部、朋花の望みどおりにする」
朋花は幸せそうに笑ってから尋ねた。
「宗介がこんなに優しくしてくれたら、千景さんは嫌な気持ちにならない?」
「気にするな」
宗介はきっぱり言い切った。だが、その視線は無意識に前を歩く華奢な背中を追い、その凛とした姿に視線がわずかに揺れた。
「俺と千景は、もう何の関係もない」
その言葉が耳に届き、千景はわずかに目を細めた。
ちょうどその時、スマートフォンが震えた。千景は電話に出た。
「例の件、引き受ける。作品と権利関係の書類は1か月以内に全部まとめて送る。今回のコンペ、一緒に頑張ろう」
第2話
車は、見覚えのあるリバービューの高層マンション前に静かに止まった。
千景と宗介が何もないところから働き、ようやく手に入れた家だった。
離婚をめぐって争ったこの1年、千景はホテルで暮らしていた。
戻りたくなかった。戻るのが怖かった。
それでも今日、すべてが変わってしまった部屋に足を踏み入れる勇気が、ようやく持てた。
指が、今も覚えている暗証番号を押した。
扉が開くと、冷え切った空気が流れ出してきた。室内はがらんとしていた。
玄関に立った千景の前から、宗介が暮らしていた痕跡はすべて消えていた。
よく着ていた黒いスーツも、無造作に置かれていた腕時計も、愛用していたホワイトティーのディフューザーもなかった。
空っぽの部屋には、千景の物だけが残されていた。
そのことは、以前にアシスタントから聞いていた。
宗介は半年前、私物をすべて、朋花と同棲しているマンションに運び出していた。
千景はゆっくりリビングに進んだ。
布張りのソファは、大学を卒業して1年目に、2人で長いあいだ貯金して買ったものだった。
その年の晩秋、急ぎのデザイン案件を引き受けた千景は、3日3晩ほとんど眠れず、目を真っ赤にして力尽きていた。
ソファに倒れ込み、宗介の胸に身を寄せて甘えた。
「疲れた。もうデザイン画なんて描きたくない」
宗介は千景を抱き、凝り固まった肩と背中をゆっくり揉みながら宥めた。
「よく頑張ったな、千景。描きたくないなら、もう描かなくていい。これからは俺が支える」
千景は目元をこすり、バルコニーへ出た。
2人掛けの籐椅子は、今も同じ場所にあった。風が吹くたび、編み目がかすかにきしんだ。
千景は静かに腰を下ろした。以前は数え切れないほどの夕暮れを、ここで2人並んで過ごした。
宗介はみかんの皮を丁寧にむき、一房ずつ千景の口元に運んでくれた。
千景は彼の肩にもたれ、眼下に広がる街の灯を眺めた。
「宗介。私たち、ずっとこうしていられるかな」
宗介は髪に口づけ、迷いなく答えた。
「いられる。一生、このままだ」
「一生」という約束は、あまりにも短かった。彼の愛情が自分だけに注がれたのは、ほんの数年だった。
千景は立ち上がり、キッチンへ向かった。
起業したばかりで生活が苦しかった頃、料理などしたことのなかった宗介が、千景のために作り方を覚えた。
初めてポタージュを作った時は鍋底を焦がし、苦くてとても食べられる味ではなかった。
宗介は耳まで赤くし、ばつが悪そうに器を差し出した。
「まずいよな?次はちゃんと作るから、また食べてくれるか?」
あの時の千景は、苦いポタージュを笑顔で飲み込み、何度もうなずいておいしいと褒めた。
主寝室の寝具は、すべて新しい物に替わっていた。
以前は深夜までベッドの脇でデザイン画を描き、そのまま眠ってしまうことが何度もあった。
接待を終えて帰宅した宗介は、どれほど疲れていても足音を立てずに部屋に入った。
眠りを妨げないよう、そっと布団を掛けてくれた。
そして耳元で、優しく囁いた。
「千景、もう少しだけ待っていてくれ。仕事が軌道に乗ったら、一生何の心配もさせない」
宗介は成功を手にした。だが、成功を手にした宗介の隣に、もう千景の居場所はなかった。
最後に洗面所に入った。
かつて二人分の洗面用品が並んでいた洗面台には、今では千景の物しか残っていなかった。
毎朝ここで過ごす時間は、かつて2人にとって最も穏やかなひとときだった。
狭い鏡の前に2人で並び、身支度をした。
宗介はいつもいたずらをして、泡を千景の鼻先につけた。
頬を膨らませて睨み、追いかけてくる千景を見て、目を細めて笑っていた。
千景はその場に立ち尽くした。胸の奥が鈍く痛んだ。
向きを変え、廊下のいちばん奥にある書斎へ向かった。
扉をそっと押し開けた瞬間、目の前の光景に全身がこわばった。
床は荒れ果て、黄ばんだ紙が何枚も散らばっていた。
かつて千景が一枚ずつ手書きした「仲直り券」だった。
一箱に、100枚以上も詰まっていた。
恋人だった頃、どれほど激しく喧嘩をしても、口を利かない日が続いても、この券を一枚出せば、どんなに喧嘩していても、わだかまりを捨てて仲直りすると約束していた。
1年前、千景は宗介と朋花の関係を知った。
取り乱し、絶望し、泣き叫んだ。
10年の愛が一日にして消えたとは信じられず、仲直り券の箱を抱えて、泣きながら宗介にすがった。
「宗介、一枚使おう。お願いだから、もう一度やり直そう?」
だが宗介は、取り乱す千景を冷ややかに見下ろし、彼女が抱えていた箱を手で払い落とした。
仲直り券が宙を舞い、床一面に散らばった。
その目には、情のかけらも残っていなかった。
「千景。愛し合っていた時に書いた物でも、愛がなくなれば何の価値もない。そんな約束が、今さら通用するわけがないだろう」
千景は目を伏せた。長いまつ毛が、瞳の奥の痛みを覆い隠した。
手を上げ、書斎の扉を静かに閉めた。
ポケットのスマホが鳴り、静まり返った部屋に音が響いた。
千景は深く息を吸い、胸の奥から込み上げる痛みを押し込めて、落ち着いた声で電話に出た。
相手は、花店の店主だった。穏やかで丁寧な声が聞こえた。
「三枝様、お忙しいところ失礼いたします。明日のお花も、例年どおり霊園にお届けしてよろしいでしょうか」
第3話
外では冷たい雨がしとしとと降り、灰色の空が街を覆っていた。
千景は署名を終えた書類を封筒に入れ、宗介の会社に送った。
すべてを済ませると傘を手に取り、1人で郊外の霊園へ車を走らせた。
人影の少ない霊園で、「鷹取朔也(たかとり さくや)」と刻まれた小さな墓石の前に立った。
ぼんやりと見つめているうちに、元気に走り回っていた朔也の姿が目の前に浮かんだ。小さな手で服の裾をつかみ、甘えるように「ママ」と呼んでいた。笑顔は手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明だった。
千景が呆然とし、幻に手を伸ばそうとした時、背後から大勢の足音が押し寄せた。
カメラとマイクを手にした記者たちが群がり、レンズを一斉に千景に向けた。
「三枝さん、昨日の調停でようやく離婚に同意したばかりなのに、今朝、鷹取社長の会社へ送った封筒には、10年前に書いたラブレターが入っていたそうですね」
「離婚まで決まったのに、昔の手紙まで持ち出して縋るほど、まだ鷹取社長を諦められないんですか?」
「離婚の原因は、結局どちらにあるのでしょうか?」
幾つものマイクとカメラに囲まれ、千景は何が起きているのか分からないまま、その場に立ち尽くした。
待機していたボディーガードがすぐに駆け寄り、千景を背後にかばって記者たちを遠ざけた。
千景は混乱を押し殺して車に戻り、宗介の会社に直行した。
受付に着いて、ようやく社員から事情を聞いた。
今朝、宅配便が受付に届いた時、宗介を訪ねてきた朋花がその場に居合わせた。朋花が勝手に封筒を開けると、中から黄ばんだラブレターがこぼれ落ちた。その場に取材で来ていた記者が偶然目撃し、瞬く間に話が広まったという。
怒りが一気に込み上げた。千景はそのまま上階へ向かい、社長室の前で朋花を見つけた。
一歩詰め寄った。
「宅配便が届いてから開封されるまで、防犯カメラに全部映っている。あの手紙をどこから持ってきたの?」
宗介はすぐに駆け寄って朋花を抱き寄せた。千景に説明する隙も与えず、その腕をつかんで社長室へ引き入れ、扉を強く閉めて外の野次馬を遮った。
まず朋花を椅子に座らせ、わずかに膨らんだ腹に手を添えた。
「怖がらなくていい。俺がいる。落ち着け。お腹の子に障る」
朋花を落ち着かせてから、ようやく千景に向き直った。
「この件をいつまでも責めるな。朋花が封筒を取り違えただけだ。あの手紙は、朋花が見てみたいと言ったから、俺が渡した。離婚協議書は受け取っている。このことで納得できないなら、財産分与の条件をさらに上乗せしてもいい」
千景は呆然と立ち尽くした。
何も言わない彼女を見て、宗介は眉を寄せ、苛立ちを露わにした。
「何年も前の手紙が数通あっただけだ。いつまでこだわるつもりだ。昔の話は、もう終わった。あの頃の気持ちは、もう過去の俺の中にしかない。今の俺には、読む気もなければ興味もない」
千景は指が白くなるほど拳を握った。喉の奥に痛みが込み上げ、掠れた声が漏れた。
「そうね。あなたは、もう変わってしまったもの」
千景は顔を上げ、2人の青春と努力が詰まった社長室を見回した。
6年前、この部屋が完成した時は何もなかった。千景は宗介と夜遅くまで残り、少しずつ部屋を整えた。
だが今は、どこを見ても朋花の物ばかりだった。
柔らかなクッション、甘い香りのディフューザー、趣味のいい小物。
そばで朋花が、柔らかな声で口を挟んだ。
「宗介、もしかしたら……千景さんは、補償がまだ足りないと思っているのかも。昨日あんなにあっさり離婚に応じたのは、何か別の思惑があったからなのね」
宗介の顔つきが険しくなった。
千景に冷たい目を向けた。
「俺は十分に譲歩してきた。それでもしつこく追い詰め、それでもしつこく争うつもりなら、最後には何の財産も受け取れなくなるかもしれないぞ」
千景は警告を無視し、静かに宗介を見つめた。
「宗介。今日が何の日か、分かってる?」
宗介の体が強張った。喪服のような黒い装いに目を奪われた。
胸の奥が不意に空っぽになった。眉を寄せたまま、意識は遠い過去に引き戻された。
それは2人の胸の奥深くに埋め、どちらも触れられずにいた傷だった。
だが数秒後、朋花のかすかな息遣いが宗介を現実に引き戻した。
一瞬の揺らぎを押し込め、宗介は言った。
「もう10年経った。過ぎたことは、過去にしなければならない。俺にはもうすぐ新しい子どもが生まれる。千景にも、いつか新しい人生や大切な人ができるだろう。俺に執着して残りの人生を無駄にする必要はない」
千景は、10年愛した男を見つめた。
次の瞬間、乾いた音が閉ざされた社長室に響き渡った。
不意を突かれた宗介の顔が横を向き、頬にくっきりと赤い跡が浮かんだ。
第4話
平手打ちの乾いた音がまだ廊下に響く中、千景は社長室を後にした。
両側のデスクにいた社員が一斉に顔を上げた。無数の視線が千景にまとわりつき、ひそひそと囁く声が絶えなかった。
周囲の目など意に介さず、フロアの奥にあるデザイン資料室へ向かった。
そこには、デザイナーとして歩んできた千景の原画がすべて保管されていた。幾晩も机に向かい、磨き上げてきた仕事の結晶だった。
奥の扉を開けると、湿気と黴の臭いが鼻を突いた。
日当たりの悪い資料室は冷え切っていた。長年の雨漏りで、壁には水が伝い、隅に積まれた何束ものデザイン画を濡らしていた。
紙は水を吸って膨れ、手描きの線も彩色も滲んでいた。過去に受賞した作品の原画も、未発表のオリジナル案も、その大半が台なしになっていた。
若いインターンが、おどおどしながらそばに来た。
「三枝先生、申し訳ありません……少し前に安西さんから、先生の原画を全部この資料室へ移すように言われたんです。どれも古くて役に立たないし、会社ではもう使わないからって……」
千景は水に濡れて崩れた紙を見下ろし、胸の奥に込み上げる痛みを押し殺した。
インターンを責めることなく、淡々と言った。
「もう出ていいわ」
相手はほっとした様子で、足音を忍ばせて部屋を出た。
ほどなくして足音が近づき、宗介が扉を開けて入ってきた。
床に散らばる無残な原画を見回し、ほんの一瞬ためらいを浮かべたが、すぐに口を開いた。
「この件で、朋花を必要以上に責めないでくれ。俺たちは10年も夫婦だったんだ。朋花が不安になって、考えすぎてしまうのも無理はない」
千景はその偽善的な顔を見上げたが、話をする気にはなれなかった。
かがみ込み、まだ修復できそうな原画を集め、胸にしっかり抱いて立ち去ろうとした。
外では雨脚が急に強まり、激しい雨粒が大きな窓を叩いていた。
宗介は千景の華奢な背中を見つめた。少しためらった末、手を伸ばした。
「雨がひどい。送っていく」
千景はその手をきっぱりと払いのけた。
ちょうどそこへ、朋花が宗介を捜しに来た。
朋花は入口で足を止めた。たちまち目に涙をため、唇を震わせた。何も聞かず、顔を覆って走り去った。
ほどなくして、ビル中に噂が広まった。
面白半分の社員が、廊下や社長室での言い争いを撮影し、SNSに投稿していた。動画は瞬く間に拡散された。
反応は真っ二つに分かれた。事情を知らず、千景がいつまでも宗介につきまとっていると責める者もいた。一方で、朋花が人の家庭に入り込んだ不倫相手だと指摘する声も多く、コメント欄は荒れに荒れた。
朋花は宗介に支えられ、休憩スペースでスマホを見ていた。次々と飛び込んでくる辛辣な非難に、息もできないほど追い詰められていった。
画面に並ぶ「不倫女」という言葉を見つめているうちに、張りつめていた糸が切れた。視界が暗くなり、そのまま宗介の腕の中に崩れ落ちた。
宗介は慌てて抱き留め、腹をかばいながら、社員に水を持ってくるよう厳しく命じた。
しばらくして、朋花はようやく目を覚ました。顔は真っ青で、目は泣き腫らしていた。
宗介の袖を強く握り、涙声で訴えた。
「宗介、私が何を言われても構わないの。少しくらい傷ついたって平気。でも、私たちの子はまだ生まれてもいないのに、ネット中から好き勝手に叩かれて、勝手なことを決めつけられてる……」
涙で潤んだ目を上げ、少し離れた場所に立つ千景を見た。
「私は不倫なんてしてない。宗介とは、あなたたちの関係が破綻して離婚が決まったあとに付き合い始めて、妊娠したの。お願いだから、子どものことまで悪く言わないで」
宗介はわずかに体をこわばらせた。無表情な千景を見上げ、その目で同意を迫った。
千景は目の前で繰り広げられる見え透いた芝居に、冷ややかに鼻を鳴らした。
不倫などしていない?
家庭に入り込み、千景のすべてを壊した女が、今になってよくも平然と被害者を装えるものだ。
その反応を見た朋花は、また目を赤くし、今にも泣き出しそうな顔をした。
次の瞬間、宗介が大股で近づき、千景の手首をつかんだ。振りほどけないほど強い力だった。
「千景、頼む。補償の条件はすべてのんだ。その代わり、誤解を解くコメントを出してくれ。この1年、別れようとしなかったのはお前だ。お前がいつまでも引き延ばさなければ、俺と朋花はとっくに堂々と結婚できていた。こんな噂も立たなかったんだ」
手首に痛みが走り、千景は必死に振りほどこうとした。だが宗介の手はびくともしなかった。
周囲の視線が、すべて千景に集まっていた。探るような視線も、憐れむ視線も、嘲るような視線も、四方から千景に突き刺さった。
積み重なった疲労が、抗う力まで奪っていった。
長い沈黙の末、千景は目を伏せた。
「分かった。コメントを出す」
第5話
千景は鷹取ホールディングスを出ると、車で滞在先のホテルに戻った。
しばらくして、スーツケースの底から、何年も使っていなかった古いスマホを取り出した。
冷えた端末の画面が点灯し、その光が生気を失った瞳を照らした。
かつて千景と宗介が、ジュエリーデザイン界のゴールデンカップルと呼ばれていた頃、2人で開設した公式アカウントだった。
会社を宣伝し、仲の良い夫婦として世間に見せるために作ったものだった。
画面を数回タップすると、ログインが完了した。
タイムラインには、何年も前の投稿ばかりが並んでいた。
ともに働く姿、深夜までデザインを修正する姿、親密に言葉を交わす姿。動画も写真も、幸せだった日々で埋め尽くされていた。
コメント欄には、2人を羨み、祝福する言葉が並んでいた。
【まさに理想の夫婦。支え合って歩く2人が素敵】
【鷹取社長と三枝デザイナーは、業界一お似合いの2人】
【2人の愛と才能を、いつまでも信じています】
千景は黙って眺めたあと、長く開いていなかったダイレクトメッセージの一覧を開いた。
いちばん上に、5年前から動いていないサブアカウントがあった。
それを開いた。
大量のメッセージが画面に現れた。
5年前の宗介から送られたものだった。
あの頃の宗介は、まだ今ほど仕事に追われていなかった。
毎晩、仕事が終わるとそのサブアカウントからそっとメッセージをくれた。
千景を笑わせ、眠れない夜には付き合い、さりげない言葉で何度も心を軽くしてくれた。
だがある時から、そのアカウントからメッセージが届くことはなくなった。
千景の瞳がかすかに揺れたが、すぐに我に返った。
それ以上は見ず、撮影画面を開いた。カメラをまっすぐ見つめる表情は、静かで揺るぎなかった。
動画が予定時刻に公開されるよう、投稿予約を設定した。
それから弁護士に電話をかけた。
「離婚手続きに必要な書類と、デザインの権利帰属に関する書類は、すべてこの住所に送ってください。あのマンションは、すぐ売りに出します。価格を下げてでも、できるだけ早く売却してください」
すべてを片づけた千景は最低限の荷物だけをまとめ、いちばん早い便を予約した。その夜のうちに、10年の青春と我が子を葬った街を離れた。
……
宗介は、泣き止まない朋花を長いこと辛抱強く宥めた。
広報対応にも応じ、千景との間には夫婦としての情が残っているだけで、男女としての愛情はとうにないと淡々と説明した。
それでも朋花は不安に駆られ、ネットに残るわずかな批判を何度も気にした。
宥め続けるうちに、宗介の胸には次第に苛立ちと疲れが生まれた。
約束したコメントの時刻を過ぎても、ネットには何も出ていなかった。
宗介はスマホを取り出し、千景に電話をかけた。
つながらなかった。
宗介は眉を寄せた。
その時、SNSが突如騒然となった。一本の動画が瞬く間に拡散され、関連ワードがトレンド1位に躍り出た。
動画の中で、千景は落ち着いた表情のまま、朋花が3年前から千景と宗介の結婚生活に介入し、長期にわたって不倫関係を続けていたと語った。
息子の朔也が亡くなった経緯にも触れ、この1年「別れようとしなかった」と言われてきたのは、我が子を失った悲しみと崩壊した結婚生活の中でもがいていただけだと明かした。
最後に、結婚中に自分が生み出したすべてのオリジナルデザイン、基本コンセプト、原画の権利は千景個人に帰属すると正式に表明した。今後、宗介とも鷹取ホールディングスとも、仕事上の関係や提携を一切持たず、独立したデザイナーとして再出発すると宣言した。
宗介は画面に映る見慣れたプロフィールを見つめた。
かつて2人で運営していたアカウントだった。
一瞬にして、古い記憶がいくつも蘇り、宗介の心をつかんだ。
宗介はしばらく呆然としていた。
隣にいた朋花の顔から血の気が引いた。宗介の腕を強くつかみ、取り乱して泣いた。
「宗介!千景さんはわざとこんなことをしたのよ!私を世間のさらし者にして、私と赤ちゃんを苦しめたいだけ!」
宗介ははっと我に返った。
真っ先に浮かんだのは、千景があのリバービューのマンションにいるという考えだった。
彼女は昔から、思い出を大切にする女だった。
きっと今も、あの部屋で自分を待っている。
動画を出したのも、仕返しをするためだ。腹を立て、自分に振り向いてもらおうとしているだけだ。
理由の分からない焦燥が胸を焼いた。
考えをまとめる余裕もないまま、宗介は車を飛ばし、かつての家へ向かった。
急いで部屋の前まで上がり、扉を激しく叩いた。怒りを含んだ声が響いた。
「千景、出てこい!いつまでこんなことを続けるつもりだ!」
室内から返事はなく、静まり返っていた。
何度も扉を叩いていると、やがて鍵を持った見知らぬ不動産会社の担当者が、申し訳なさそうな顔で駆け寄ってきた。
「お客様、もうおやめください。こちらのお部屋は30分ほど前に売買と引き渡しが完了しています。以前の所有者様は、すでに完全に退去されました」