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冬の夜を越えるピアノの調べ
神崎夜瑠(かんざき よる)は、桐生家の御曹司が暗がりで密かに育て上げた、一振りの刃だった。 7歳の時に桐生晏臣(きりゅう やすおみ)に拾われ、8歳で刃を握り、15歳になる頃には彼に代わって敵対組織を壊滅させるまでになっていた。 大学受験の日、彼女はたった一人で拉致犯のアジトへ乗り込み、身に17箇所もの刺し傷を負いながらも晏臣を救出した。 それ以来、晏臣は夜瑠をこれ以上ないほど溺愛した。 法定年齢に達するやいなや、半ば強引に彼女の手を引いて籍を入れ、耳元で誓った。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」 傷跡だらけの彼女を、彼は毎晩のようにその腕の中へと抱きすくめた。温かい唇で一つひとつの傷跡をなぞり、激しく抱きしめ合いながら低く囁くのだ。 「夜瑠、お前は誰よりも清らかだ。永遠に俺から離れるな」 彼女はそれを心から信じ切っていた。 彼が外で囲っていた「白鳥」への、プロポーズの現場を押さえてしまうまでは。 彼は完璧に隠し通せていると思い込んでいたのだろう。だが、夜瑠がとっくに彼に内緒で大学へ進学していたことなど知る由もなかった。そして、彼が掌中の珠のように慈しんでいたその女こそが、夜瑠の最も仲のいい同級生だったのだ。
チャプター (1)
第1章
神崎夜瑠(かんざき よる)は、桐生家の御曹司が暗がりで密かに育て上げた、一振りの刃だった。
7歳の時に桐生晏臣(きりゅう やすおみ)に拾われ、8歳で刃を握り、15歳になる頃には彼に代わって敵対組織を壊滅させるまでになっていた。
大学受験の日、彼女はたった一人で拉致犯のアジトへ乗り込み、身に17箇所もの刺し傷を負いながらも晏臣を救出した。
それ以来、晏臣は夜瑠をこれ以上ないほど溺愛した。
法定年齢に達するやいなや、半ば強引に彼女の手を引いて籍を入れ、耳元で誓った。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」
傷跡だらけの彼女を、彼は毎晩のようにその腕の中へと抱きすくめた。温かい唇で一つひとつの傷跡をなぞり、激しく抱きしめ合いながら低く囁くのだ。
「夜瑠、お前は誰よりも清らかだ。永遠に俺から離れるな」
彼女はそれを心から信じ切っていた。
彼が外で囲っていた「白鳥」への、プロポーズの現場を押さえてしまうまでは。
彼は完璧に隠し通せていると思い込んでいたのだろう。だが、夜瑠がとっくに彼に内緒で大学へ進学していたことなど知る由もなかった。そして、彼が掌中の珠のように慈しんでいたその女こそが、夜瑠の最も仲のいい同級生だったのだ。
第1話
負傷した足を引きずりながらキャンパスに戻った日、夜瑠は盛大なプロポーズの現場に出くわした。
校門から学生寮へと続く道には白薔薇が敷き詰められ、中央に敷かれたエメラルドブルーのカーペットは、湖面の波光を散りばめたかのように碧く眩い光を放っている。
白鳥雪乃(しらとり ゆきの)は純白のワンピースに身を包み、カーペットの終点で優雅な白鳥のように佇んでいた。
そして片膝をついている男は、海外へ出張に行くと言っていたはずの晏臣だった。
マスク姿の夜瑠は人混みに紛れ、二人が口づけを交わすのを見つめていた。まるで懐に氷の塊を抱え込んだように、骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。
昨夜も彼女と肌を重ね合い、「お前の胸の中で死んでしまいたい」と甘く囁いていた人が、今は真剣な面持ちで別の女性が頷くのを祈り求めている。
ここで初めて彼女は悟った。晏臣は最初から、自分を日の当たる場所に出すつもりなどなかったのだと。
二人の逢瀬はいつも深夜で、その関係が公にされたことは一度もなかった。
3年前、彼女は一度彼の元を去ったことがある。
桐生家や二人の関係を知る周囲の人間は皆、大学にも行っていない天涯孤独の女など、海市の桐生家の御曹司には不釣り合いだと言い放った。
それでも晏臣はあらゆる人脈を駆使し、7日間不眠不休で探し回り、ついに彼女を連れ戻した。
あの時の彼の姿を、彼女は今でも覚えている。死に絶えたような静寂の中に苦痛を滲ませ、震える声でこう言った。「夜瑠、俺を捨てて、どこへ逃げるつもりだったんだ?」
彼は部下に命じて自分自身を99回も鞭で打たせ、彼女を見つめる瞳に光を宿して言った。
「夜瑠、お前を不安にさせた俺が悪い。罰を受けるべきだ」
夜瑠は血まみれになった彼の背中を見て、胸を痛めてボロボロと涙をこぼした。
晏臣が彼女にW国の永住権とプライベートジェットの搭乗証を渡したのは、まさにその時だった。
「夜瑠、俺はW国への入国を生涯禁じられている。もし俺がお前を裏切ったら、永遠にお前に会えない罰を受けてやる」
夜瑠がそれを受け取ると、彼は骨の髄まで溶け合わせるかのように彼女を強く抱き寄せた。「夜瑠、一生これらを使う日は来させない」
だが今、裏切りは残酷なほど明白に目の前に突きつけられている。
ずっと馬鹿を見ていたのは自分だったのだ。
夜瑠はふらふらとした足取りで晏臣のオフィス用邸宅へと向かった。問い詰めるより先に、部屋の中から彼の友人たちの祝いの言葉が聞こえてきた。「晏臣さん、見事美人を射止めましたね。おめでとうございます!」
酔いを帯びていた晏臣の眼差しが、刹那、凍てつくように鋭くなった。
「誰にも一言も漏らすな。もし夜瑠に知られたら……」
グラスが乱暴にテーブルに置かれ、友人たちは口をつぐんだが、それでも恐る恐る尋ねた。「晏臣さん、宗一郎さんが結婚を急かしていますが、夜瑠さんとは本当に婚姻届を出さないんですか?」
夜瑠は全身の血が逆流するような感覚に襲われ、無意識に息を潜めた。
すると晏臣は口角を上げ、一枚の婚姻届受理証明書を放り出した。「祖父さんは雪乃のことがすっかり気に入ってね。代々伝わる家宝まで渡したよ」
夜瑠は呆然とし、耳の奥で激しい耳鳴りがした。
晏臣と雪乃が籍を入れた?
では、自分の手元にある証明書は何なのだ?
友人たちも呆気にとられ、その証明書を手に取ってまじまじと見つめた。「じゃあ、夜瑠さんはどうするんですか?」
晏臣は証明書を金庫にしまい、グラスを揺らしながらしばらくして口を開いた。
「あの時、夜瑠と籍を入れようとしたが、祖父さんが事前に俺の書類に細工をしていてな。本物の手続きなど通るはずもなかったんだ」
彼は淡々と語る。「だから偽物を仕立てて、あいつを言いくるめて本気で惚れ込ませるしかなかった。夜瑠は気性が激しすぎて、桐生夫人には向いていない。俺が裏で可愛がってやれば十分だ」
友人たちの目に複雑な色が浮かんだ。
「晏臣さん、夜瑠さんはかなりの手練れですし、もし彼女に知られて……また離れていったらどうするんですか?」
晏臣の漆黒の瞳が冷たく光った。「なら、永遠に知られないようにすればいい。景太に伝えろ、夜瑠から目を離すなとな」
夜瑠は自嘲の笑みをこぼした。
須藤景太(すどう けいた)に何度も挑発されて傷を負ったのも、すべて晏臣の差し金だった。
どうりで今日、大学へ向かう道中で景太が狂ったように引き止めてきたわけだ。彼を振り切るために、足の怪我がさらに悪化したのだから。
彼はただ、夜瑠が偶然その場を通りかかり、あのプロポーズの光景を目にしてしまうのを恐れていただけなのだ。
心を抉るような真実から立ち直る間もなく、友人の一人が、夜瑠自身も知りたい問いを投げかけた。「晏臣さん、本当はどっちを愛してるんですか?」
晏臣は何かを思い浮かべたのか、その瞳に柔らかな光を宿した。「当然、夜瑠だ。だがこれからの3年間は、雪乃のことも全身全霊で慈しんでやるつもりだ」
彼は指先でグラスの縁をなぞりながら言った。「雪乃は純真そのものだ。まるで18歳の頃の夜瑠のようにな。俺のために一条家に乗り込んだりしなければ、夜瑠も本来ならあんな風だったはずなんだ。
夜瑠をもう一度育て直すことはできない。だから雪乃を育てる。そうすれば、夜瑠に対する心残りも埋まるからな」
友人は黙って酒を煽り、再び尋ねた。「晏臣さん、本音を言ってください。夜瑠さんがあなたを救うために、一条家に乗り込んで過ごしたあの3日3晩のこと……本当はまだ気にしてるんじゃないですか?」
夜瑠の心は、どこまでも深く沈んでいった。
一条家でのあの3日3晩は、確かに悪夢そのものだった。
誰一人として、彼女が体を汚されずに生還したなど信じなかった。晏臣だけは信じると言ってくれた。その後の幾つもの夜、彼は彼女の涙を口づけで拭い、「俺の夜瑠が一番清らかだ」と囁いてくれた。
だが今回、晏臣は何も答えず、ただグラスの酒を一気に飲み干した。
その沈黙こそが、何よりも残酷な事実の黙認だった。
夜瑠は目を閉じ、涙がこぼれ落ちるままに任せた。
彼は彼女を信じてなどおらず、それどころか汚らわしいとさえ思っていたのだ……
晏臣の低く掠れた声が再び響いた。「7日後の結婚式は、夜瑠には伏せておけ。いっそ『不慮の事故』で怪我でもさせて、しばらく病院に寝かせておくのが一番いい」
夜瑠の心の中で張り詰めていた糸が、ついにプツリと切れた。
晏臣の言葉は鋭い刃となって、彼女の心臓の一番深い場所を容赦なく抉った。
彼女の痛みなど、彼にとってはとうの昔に計算ずくの道具となり、彼女を支配するための手段に成り下がっていた。
ブーッ――
スマートフォンに3件のメッセージが立て続けに届いた。
1件目は雪乃からで、婚姻届受理証明書の写真と、嬉しそうなスタンプが添えられていた。
【夜瑠、私、ずっと憧れてた人とついに結ばれたの!ねえ、この証明書、私たちにぴったりだと思わない?】
2件目は晏臣からだった。【夜瑠、会いたいよ。こっちの用事が済んだら、すぐに帰ってお前のそばにいるから】
最後の1件は指導教官の芳賀(はが)先生からだった。【夜瑠さん、本当にW国音楽院からのオファーを辞退するつもりなのか?君の才能を埋もれさせてしまうのはあまりに惜しい。もう一度よく考えてみてほしいんだ】
夜瑠はその証明書の写真と、彼の「会いたいよ」という言葉をじっと見つめた。それはまるで強烈な平手打ちのように彼女の頬を張り飛ばし、これまでの愚かさを容赦なく嘲笑っているかのようだった。
心臓に無数の棘が刺さるような痛みが広がり、指先まで小刻みに震え始めた。
彼女はゆっくりとトーク画面を開き、返信を打ち始めた。
第2話
雪乃への返信は、ただ一言だった。【おめでとう】
指導教官への返信も、すぐに打ち込んだ。【芳賀先生、そのオファーをお受けします】
雪乃からの返信は早かった。送られてきたのは指を絡め合わせた二人の手の写真で、薬指にはめられたダイヤの指輪が、画面越しでも目を刺すほど眩しく光っていた。
添えられたメッセージには、隠しきれない喜びが弾けていた。【彼がね、私のことを彼の白鳥だって言ってくれたの】
指導教官からも、ほぼ即座に返信が来た。
【よかった!楽団の人間がもうすぐ帰国する。航空券は向こうが手配してくれるから、7日後に必ず手続きに向かいなさい。頑張れよ!】
夜瑠は画面を見つめたまま、ふうっと長く息を吐き出した。
彼女は隠し持っていた卒業証明書を、鞄の奥へと押し込んだ。本来なら交際7周年のサプライズにするつもりだったその証明書は、今や彼女の逃亡を叶える切符となっていた。
ダークウェブのページはまだ開いたままで、彼女は肉親探しの依頼フォームの送信ボタンを、静かにクリックした。
鬱蒼と茂るプラタナスの葉越しに、邸宅の窓際に立つあの男の横顔が見える。相変わらず、すべてを掌の上で転がしているかのような、余裕に満ちた佇まいだった。
――晏臣、今度こそ、私は本当にあなたの元を去るわ。
唯一の家族を自称していた彼がこうして裏切ったのだから、これからは本当の家族を探しに行けばいい。
彼女は覚束ない足取りで、二人の住まいへと戻った。
予想通り、その夜、晏臣が帰ってくることはなかった。
午前3時、スマホが震えた。
彼からのメッセージだった。【夜瑠、会社で急用ができて出張に出ることになった。大人しく家で待っていてくれ。愛してる】
空が白み始めた頃、再び雪乃からの通知がポップアップし、今度は短い動画が添付されていた。
【夜瑠、私今雲市にいるの!彼がね、私に白鳥のお城を建ててくれたんだよ!もう幸せすぎる!】
動画の中では、広大な音楽噴水の中央に巨大なクリスタルガラスの白鳥が鎮座しており、降り注ぐ朝陽を反射して、目が眩むほどの輝きを放っている。
画面の端に横顔をわずかに覗かせた晏臣が、甘い声で尋ねる。「雪乃、誰にメッセージを送ってるんだ?」
「もちろん夜瑠よ」
雪乃は甘ったるい笑い声を上げながら、彼の首に腕を絡ませた。「桐生さん、どうかした?夜瑠は私の一番の親友なんだから」
カメラがぐっと向きを変え、晏臣の顔を真正面から捉えた。
その瞬間、晏臣の目がぎくりと見開かれ、すぐにふっと表情を緩める様を、夜瑠は画面越しに見逃さなかった。
それもそうだろう。彼の認識では、夜瑠が大学のキャンパスに足を踏み入れているなど、万に一つもあり得ないのだから。
かつての彼は、いつも彼女を胸の奥深くに抱きすくめ、その頭を慈しむように撫でながら、狂気じみた独占欲を瞳に滲ませて囁いていた。
「夜瑠、学校なんて行かないでくれ。お前が他の男の目に晒されるのは耐えられないんだ」
彼は彼女の耳たぶに口づけながら続けた。「こんなに綺麗なお前が、他の男に攫われたらどうするんだ?」
しかし、音楽への夢を捨てきれなかった彼女は、彼に内緒で大学を受験した。
通学時は毎日マスクで顔を覆い、異性とは一切口を利かなかったため、同級生たちからは変わり者扱いされていた。
だが、そんなことは少しも気にならなかった。
卒業証明書を手にしたその日は、帰宅した彼に向かって証明書をひらひらと揺らしてみせる場面を想像し、少しツンとした口調をこっそり何度も練習したものだ。
「ほら、誰にも攫われなかったでしょ?」
そして、そのまま彼を卒業式へと引っ張っていくのだ、と。
だが今となっては明白だ。まんまと「攫われた」のは、他でもない晏臣の方だったのだから。
雪乃は当初、自ら夜瑠にすり寄ってきた。夜瑠は彼女の異様なほどの馴れ馴れしさに、何か裏の目的があるのではないかと違和感を覚えていた。
しかし付き合っていくうちに、二人には驚くほど多くの共通の趣味があることが分かった。
乗馬を好み、アーチェリーを嗜み、白い色を愛し、そして何よりピアノを弾くのが大好きだった。
雪乃は、秘密の恋バナまで打ち明けてくれるようになった。
「夜瑠、私の憧れの人がね、私のこと好きだって、支援したいって言ってくれてるんだけど……私、どうしたらいいか分からなくて」
あの頃の夜瑠は、晏臣と愛し合っているという甘い錯覚にどっぷりと浸かりきっており、ただ微笑んでこう助言した。「自分の心の赴くままにすればいいのよ」
あのプロポーズの現場に居合わせさえしなければ、雪乃の言う「憧れの人」が、毎日自分に「愛してる」と囁いていた晏臣その人であったことなど、一生知る由もなかっただろう。
堪えきれずに流れた涙が心の奥底へと滴り落ち、絶望的なまでの苦痛が、体の隅々にまでじわじわと広がっていった。
動画はまだ続いている。
晏臣はすでに雪乃を横抱きにしており、その言葉には甘やかしと寵愛が溢れていた。
「さっき俺のこと何て呼んだ?桐生さん?随分いい度胸してるじゃないか。さあ、旦那様がお前をたっぷり『お仕置き』してやる番だな」
動画はそこでぷつりと途切れた。
夜瑠の掌からスマートフォンが滑り落ち、ソファの隅へと転がっていく。
彼女は目を閉じ、体を小さく丸め込んだが、肩の震えはどうしても止まらなかった。
あんなにも甘く親密な口調で、晏臣が彼女に語りかけてくれたことなど、一度たりともなかった。
昔から彼が冷徹な性格で、甘い言葉を囁くのが苦手なのだとばかり思い込んでいた。
だが今なら分かる。言えないのではなく、自分には与えたくなかっただけなのだ。
雪乃からのメッセージは、その後も次々とポップアップし続けていた。
【夜瑠、彼ね、ベッドでもすごく激しくて……私、本当にいい人見つけちゃった。恥ずかしいな】
【あなたがくれた結婚祝いのプレゼント、彼に破られちゃったよ、もう……】
【夜瑠も旦那さんに毎日求められてるって言ってたよね?早くコツ教えてよ、私もう体がもたないよ】
夜瑠の心は生きたまま引き裂かれたように、そこへ凍てつくような隙間風が吹き込んでくる。
雪乃からねだられた、あの結婚祝いのプレゼントを思い出す。
それは、彼女が三軒も店を回ってようやく選び抜いた、セクシーなランジェリーだった。
苦痛に目を閉じると、麻痺した心の底からどろりとした吐き気が込み上げ、息が詰まりそうになる。
心底信じ抜いた親友と、骨の髄まで愛した男。その二人が結託して、彼女を徹底的に痛めつけ、ボロボロに引き裂いた。
これらすべてが、本当にただの偶然だというのか?
突然、晏臣専用に設定した通知音が鳴り響いた。
開いてみると、取引先との契約を交わす写真だった。スーツを完璧に着こなし、余裕のある笑みを浮かべている。添えられた文面には、いつものような優しさが滲んでいた。
【夜瑠、会議が終わったぞ。夕食には間に合いそうだ。お前にサプライズがある】
彼の芝居は、隙もないほど完璧だった。
もし雪乃の動画を見ていなかったら、彼女はきっと以前のように彼の甘い言葉に丸め込まれ、彼が編み上げた嘘の中で大人しく甘い夢を見続けていたことだろう。
夜の6時、晏臣は時間通りにドアを開けて入ってきた。
オーダーメイドのスーツにはシワ一つなく、体からは彼女が贈ったモミの香水の香りが漂い、首筋や手首も清潔そのもので、怪しい痕跡など微塵も残していなかった。
その瞳には相変わらずの優しさが満ちており、腕には白薔薇の花束を抱え、手には彼女が一番好きなチョコレートを提げている。そして身を屈め、彼女の額にそっとキスを落とした。
「夜瑠、帰ったぞ」
夜瑠は冷ややかな瞳で、彼が手慣れた様子で花を花瓶に生け、着替えに向かう背中を見つめていた。
夕食の席は、ピアノの生演奏があるレストランに用意されていた。窓の外には夜の港が広がり、静まり返っている。
穏やかなピアノの調べが流れる中、晏臣は切り分けたラム肉を彼女の前に押しやり、わずかに眉をひそめた。
「夜瑠、怒っているな」
疑問ではなく、確信に満ちた口調だった。
「3回だ。お前は俺のメッセージを3回も無視した」
彼は手を伸ばして彼女の手を握り、じっと見つめ込んだ。「7周年の記念日をすっぽかしたことを怒っているのか?」
夜瑠の手はかすかに震え、心臓を細い針で深く刺されたような痛みが走った。
彼は何もかも分かっていながら、よりによって二人の記念日の当日に、雪乃に向かって片膝をついた。
今さら記念日を持ち出すなど、あまりにも皮肉すぎる。
そもそも二人の間に、本物の結婚など最初から存在しなかったのだから。
彼女は顔を上げ、冷え切って疲れ果てた瞳で彼を真っ直ぐに見据え、はっきりと問い返した。「ならあなたは、私を裏切るような真似をしたの?」
晏臣はテーブル越しに彼女の手を強く握りしめ、声を震わせた。「夜瑠、言ったはずだ。お前は俺の命だと。もし俺がお前を裏切るような真似をしたなら、その時はお前を永遠に失う罰を受けたって構わない」
彼は彼女を見つめ、その眼差しには真摯な光が宿っていた。「だから夜瑠、俺は絶対に、お前を裏切ったりしない」
夜瑠は目を伏せ、ふっと声に出して笑った。
「ええ、分かったわ」
あなたの望む通りにしてあげる。もうすぐ、あなたは私を永遠に失うことになるのだから。
第3話
明らかに、晏臣は勘違いをしていた。
彼が片手を上げて合図を送ると、窓の外に突如として無数の光が灯った。
数万機ものドローンが夜空に舞い上がり、抱き合う男女のシルエットを描き出す。
周囲の人々から驚きと羨望のどよめきが沸き起こる中、晏臣は夜瑠を腕の中に抱き寄せた。
夜空に浮かび上がった光の文字は――【夜瑠、愛してる】
耳元に熱い吐息を吹きかけながら、深く情を込めて愛を告げてきた。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」
夜瑠が空を見上げると、彼女の名を形作っていた文字は次第に輪郭を失い、ぼんやりと「乃」の文字へとすり替わるように滲んで、ゆっくりと夜の闇に溶けていった。
彼女は皮肉げにふっと笑いをこぼした。
ふと視線を戻すと、晏臣の眼差しが全く別の方向へと注がれていることに気づいた。
彼はレストランの片隅の席に、ぽつんと座る人影をじっと見つめていた。雪乃だった。
雪乃のテーブルには二本の空のワインボトルが置かれており、その寂しげな姿は雨に打たれてしおれたスズランのようで、孤独でひどく庇護欲をそそる。
晏臣が夜瑠を握る手に、突如としてギリッと強い力がこもった。
夜瑠が痛みに小さく声を上げて初めて、彼は弾かれたように我に返り、慌てて詫びた。「すまない、夜瑠。会社で急なトラブルがあった。運転手に送らせるから」
夜瑠は全く手をつけていない豪勢なディナーを見つめ、口角に嘲りの笑みを浮かべた。
彼女は街角で車を止めさせ、運転手を帰らせると、自らハンドルを握ってレストランへと引き返した。
遠くからでも、晏臣が力なく崩れ落ちた雪乃を抱き抱え、血相を変えて救急車に乗り込む姿がはっきりと見えた。
車で病院まで後を追うと、晏臣が雪乃を抱えて狂ったように救急窓口へ駆け込み、喉が裂けんばかりの声で叫ぶのを、ただ黙って見つめるしかなかった。
「先生!妻がアルコールアレルギーなんだ、頼む、妻を助けてくれ!」
看護師たちが雪乃をストレッチャーに乗せて救急処置室へ運び込んだ瞬間、晏臣は全身の力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
その姿に、夜瑠の胸はぎゅっと激しく締め付けられた。
まるで、かつて彼女が一条家から命からがら逃げ出してきたあの時のようだった。彼も同じようにパニックに陥り、ふらつく足取りで医師の腕に縋りつき、「夜瑠を助けてくれ、あいつは俺の命なんだ……」と哀願していた。
あまりにも似通った光景。だが、彼の腕の中にいる人間も、口走る名前も、すっかり別の女にすり替わっている。
彼のあの「永遠に愛し続ける」という誓いなど、水泡のように跡形もなく消え去っていた。
雪乃が処置室から運び出されてくると、晏臣はすぐに彼女の手にすがりつき、蒼白な顔で訴えかけた。「雪乃、お前の望むことなら何でも言う通りにする。頼むから、もうあんな真似はしないでくれ」
雪乃は力なく首を横に振り、弱々しく呟いた。「彼女のところへ行ってあげて。私なんて、所詮は部外者なんだから。彼女を愛してるって言ってたじゃない。私の生死なんて、気にしなくていいわ……」
晏臣は慌てて彼女の唇を塞いだ。その眼差しには、夜瑠に向けたことのないような焦燥感が渦巻いている。
「俺たちの間では、あいつの方こそが部外者だ。約束してくれ、二度と自分を傷つけないと」
彼の背後に立ち尽くす夜瑠の心臓は、刃物で何度も何度も切り刻まれるように痛み、呼吸すらまともにできなかった。
ふと、桐生家の本邸での光景が脳裏をよぎる。晏臣の祖父である桐生宗一郎(きりゅう そういちろう)が彼女に罰を下そうとした時、晏臣は彼女を死に物狂いで庇い、目を血走らせて叫んだ。
「夜瑠は俺の命だ!あいつに比べたら、祖父さんだって部外者だ!部外者が、どうして夜瑠に手を出せるんだ!打つなら、俺を打て!」
なんて滑稽なのだろう。あれからどれほどの時も経っていないのに、彼女は彼の言う「部外者」に成り下がってしまった。
重いハンマーで胸を打ち砕かれたような衝撃に、夜瑠はその場に縫い付けられたように動けなくなった。
ちょうどその時、廊下の反対側で小競り合いが起き、若い看護師の手から医療用トレイがガシャンと床に落ちた。
晏臣は咄嗟にそれを足で蹴り飛ばし、雪乃をかすり傷一つ負わせずに守り抜いた。
しかし、薬品の入ったガラス瓶は、寸分違わず夜瑠のすねにまともに直撃した。
夜瑠はよろめいて床に倒れ込み、砕けたガラスの破片が掌に深々と突き刺さる。瞬く間に鮮血が流れ出した。
周囲から悲鳴が上がる。晏臣は振り返って一瞥したが、眉一つ動かさず、財布から小切手を取り出して彼女の足元に投げ捨てると、雪乃を庇うようにして背を向け、立ち去っていった。
夜瑠の目から、ついに大粒の涙が零れ落ちた。
すべては一瞬の出来事だった。
呆然としていた若い看護師がようやく我に返り、慌てて彼女を助け起こして処置室へと連れて行った。
処置室のベッドに座る夜瑠の耳に、看護師たちのひそひそ話が漏れ聞こえてきた。
「桐生社長の奥様って本当に幸せよね。あんなに格好良くて、その上あんなに一途だなんて」
「みんな知らないの?あの人、アレルギーなんかじゃなかったのよ。処置室に入った途端、『夫の愛情を試すための演技だったけど、あそこまでパニックになるとは思わなかった』って笑ってたんだから」
別の看護師が、包帯でぐるぐる巻きにされた夜瑠の左手を見下ろし、同情に満ちた顔でため息をついた。
「本当にとんだとばっちりでしたね。お顔に傷がつかなかったのだけが不幸中の幸いですよ。あんな甲斐性のある良い旦那様に巡り合えなかったのですから、仕方がありませんよね。同じ女ですのに、運命って本当に不公平なものですね」
夜瑠は虚ろな表情のままその会話を聞いていた。全身は氷のように冷え切り、掌の刺すような痛みが、心臓の奥深くまで抉るように突き抜けていく。
彼女は黙ってその小切手をしまい、視線を傍らのトレイへと落とした。
そこには、血に染まった数珠のブレスレットが静かに横たわっていた。
それはかつて、晏臣がわざわざ寺へ出向いて、彼女のために手に入れてきてくれたものだった。
あの時、彼はこう言っていた。「夜瑠、俺の愛がある限り、この数珠がお前を永遠に守ってくれる」
その言葉は今も耳の奥に響いているというのに、彼の心はとうの昔に離れてしまった。そしてその男の念がこもったこの数珠すらも、もはや彼女をわずかばかりも守ろうとはしてくれなかった。
ならば――もう、何もかもいらない。
夜瑠が処置室を後にしたのとほぼ入れ違いに、晏臣が雪乃の薬を交換させるため、看護師を呼びにやってきた。
ふとトレイの上の数珠を視界の端に捉えた瞬間、彼は息を呑み、その目をぎくりと見開いた。
第4話
晏臣が歩み寄って確かめようとしたその時、彼のスマートフォンが鳴った。
画面には「雪乃」の二文字が点滅し、通話口からは甘えたようなか細い声が漏れ聞こえてきた。「ねえ、あなた。頭が痛いよ」
彼は再びトレイの中の数珠を一瞥し、指先を微かに丸めたが、結局は身を翻して看護師の後を追って立ち去った。
夜が更けると、雨が降り出した。
古傷がじくじくと疼き、夜瑠は布団の中で身をすくませていたが、どうしても震えが止まらなかった。
かつては雨の夜になるたび、晏臣が彼女をすっぽりと腕の中に抱き込み、温かな体温で芯からの冷えを追い払ってくれたものだった。
そして、深い愛情を込めて囁いてくれた。「夜瑠、この傷は俺のために負ったものだ。これからの雨の夜は、ずっと俺がそばにいてやるからな」
だが今、その約束は無惨にも破られた。
スマートフォンが震え、雪乃からまたメッセージが送られてきた。
【夜瑠、彼の家に別の女がいるらしいんだけど、彼いわく恩返しのために置いてるだけだって。むかついたから、罰として大雨の中で立たせてるの!】
添付された動画の中では、晏臣が土砂降りの雨の中に傘もささずに立ち尽くしていた。高級仕立てのスーツはとうにずぶ濡れになって体に張り付き、細身のシルエットを浮き彫りにしている。
時折ひらめく稲妻が、蒼白ながらもどこか意地を張ったような彼の顔を照らし出していた。
動画に映るその見慣れた顔を見つめながら、夜瑠はふっと笑った。だが笑っているうちに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきた。
恩返し?
それが恩返しだというのなら、なぜ彼女を大空へ羽ばたかせてはくれず、愛という名の鳥籠に閉じ込め、その翼を無惨にへし折ったのか?
スマートフォンには、彼が夕方に送ってきたメッセージが残されたままだった。【夜瑠、今夜は海外とのオンライン会議があるから、待たなくていいぞ】
なんて滑稽なのだろう。彼の言う重要な会議とは、他の女の機嫌を取るための口実だったのだ。
彼女は苦痛に顔を歪めて目を閉じ、とめどなく溢れる涙が枕を冷たく濡らしていった。
翌朝、目を覚ますと、寝室のドアがそっと押し開けられた。
ルームウェア姿の晏臣が入ってきたが、その両目は酷く充血していた。
彼はベッドの傍らまで来ると、包帯が巻かれた夜瑠の手をそっと握りしめた。「夜瑠、誰がお前にこんな怪我を?また景太の奴が勝手な真似をしたのか?俺はあいつにきつく言っておいたはずなのに……」
言いかけて、うっかりボロを出しそうになったことに気づいたのだろう。彼は言葉を濁し、夜瑠の額にそっとキスを落とした。「夜瑠、後で乗馬クラブへ気晴らしに行こう。お前を傷つけた奴が誰であれ、俺が必ず報いを受けさせてやるから」
夜瑠は静かな声で答えた。「いいの、自分でなんとかするから」
その後、彼は甲斐甲斐しく世話を焼いた。洗面台まで彼女を抱きかかえ、朝食を一口ずつ口に運び、一番効くという高価な薬を塗って包帯を取り替えてくれた。
夜瑠は彼の首筋にうっすらと残る赤いキスマークを虚ろな目で見つめながら、まるで魂の抜け殻になった操り人形のように、されるがまま身を任せていた。
桐生家が所有する乗馬クラブは、ゴルフ場と隣接している。
敷地に着いてすぐ、遠くに白い人影が目に入った。ゴルフ用のミニスカート姿の雪乃が、男性客の傍らに立ち、どこか不本意そうな、媚びるような作り笑いを浮かべている。
晏臣はピタリと足を止め、横目で夜瑠の様子を窺いながら、わざと何でもないことのように言った。
「あれは会社で新しく雇ったアシスタントだ。会社と奨学支援プログラムを結んでいて、今年卒業したばかりなんだ」
夜瑠は微かに笑みを浮かべた。「様子を見に行かなくていいの?」
晏臣は夜瑠を真っ直ぐに見つめ返し、まるで神に誓いを立てるかのように厳粛な面持ちで言った。「夜瑠、俺の妻はお前だけだ。他の連中なんて、どうでもいい赤の他人さ」
夜瑠はそれ以上何も言わず、手綱を握りしめて馬に跨ると、まっすぐ反対方向へと進んでいった。
晏臣も馬を出して隣に並んだが、その視線は頻繁にゴルフ場の方へ引き寄せられ、心ここにあらずといった様子だった。
男性客の手が雪乃の腰に触れそうになるのを見た瞬間、晏臣は反射的に手綱を強く引いて馬を止めた。
「夜瑠、クライアントへの折り返し電話を忘れていた。スタッフを呼んでお前の相手をさせるから」
夜瑠はふっと冷たく鼻を鳴らし、構わず馬に鞭を当てて駆け出した。
木立が生い茂る人目につかない場所まで馬を進めた時、微かに女の甘ったるい嬌声が風に乗って耳をかすめた。
続いて、笑いを含んだ男の低いしゃがれ声が響いた。「なあ、あいつにお前のどこを触られたんだ?言ってみろ、俺が綺麗に洗い流してやるから」
「だめ……そこは触らないでよ……」
恥じらいを帯びた女のその声は、細い針となって夜瑠の鼓膜を容赦なく刺し貫いた。
夜瑠は馬の足を止め、まばらな枝葉の隙間から声のする方へと視線を向けた。
絡み合うように重なる二つの影――それは他でもない、雪乃と晏臣だった。
怒り、嫌悪、絶望……あらゆる感情が胸の奥で激しく渦を巻いた末に、すべては冷え切った死の静寂へと呑み込まれていった。
彼女は馬首を返してその場を立ち去ろうとした。だがその瞬間、乗っていた馬が突如として何かに怯え、制御を失って暴走を始めた。
夜瑠は必死で手綱を握りしめ、なんとか馬をなだめようと試みたが、その騒ぎは周囲の馬群をもパニックに陥らせ、現場は瞬く間に大混乱となった。
スタッフたちが血相を変えて取り囲んだが、興奮状態の馬群を前にして、誰も近づくことができない。
ようやく馬が少し落ち着きを取り戻しかけた、まさにその時だった。手綱がバツンと音を立ててちぎれ飛んだ。
凄まじい反動によって夜瑠の体は宙へと激しく投げ出され、そのまま冷たい地面へと叩きつけられた。
意識が底知れぬ闇へと沈みゆく寸前、彼女の目に映ったのは、血の気を失った晏臣の蒼白な顔。そして耳に届いたのは、喉が裂けんばかりに「夜瑠」と叫ぶ彼の悲痛な声だった。
けれど――必死に夜瑠の名を叫びながらも、男の両腕は怯え震える雪乃の体を、最後まで頑なに抱きしめ、庇い続けたままだった。
第5話
意識がまどろみの中をたゆたう中、夜瑠はひそやかな話し声を耳にした。
「社長、乗馬クラブの件ですが、何者かが廃棄用の手綱にすり替えていたことが判明しました。あの日、夜瑠様が普段お乗りの馬に近づいたのは、雪乃様だけです」
しばしの沈黙の後、晏臣の低く警告するような声が響いた。「この件はこれまでだ。絶対に他言するな」
一拍置いて、彼はさらに命じる。「それと、吉扇の名物料理を届けるよう手配しろ」
アシスタントは戸惑ったように言葉を返した。「ですが社長は以前、夜瑠様のお食事はご自身の手で作ると……」
言い終える前に晏臣の険しい顔色を察したのだろう、アシスタントは慌てて取り繕うように頭を下げた。「……差し出がましいことを申し上げました」
足音が遠ざかると、すぐさま女の弱々しいすすり泣きが聞こえてきた。
「全部私のせいだわ。わざとじゃないの。私がゴルフ場なんて行かなければ、あなたの気を散らすこともなかったし、あなたも神崎さんのことだけをしっかり守れたのに……」
続いて、保温ジャーの蓋を開ける微かな音がした。「これ、一晩かけてじっくり味を染み込ませた煮物なの。神崎さんへの、せめてものお詫びになればと思って……」
だが晏臣は突如として彼女の手首を引き寄せ、そこに残る赤い火傷の痕を睨みつけて眉をひそめた。「誰が自分を傷つけていいと言った?来い、俺が薬を塗ってやる。ついでに……自分の体を粗末にしたお仕置きをしてやらないとな」
そう言うと、彼は雪乃の体を横抱きに抱え上げた。
雪乃は泣きじゃくりながらも問い下がる。「でも、神崎さんは……」
「いいか、俺は今すごく怒ってるんだぞ。他人のことなんか構っている余裕があると思うか」
足音が完全に消え去るのを待って、夜瑠はゆっくりと目を開けた。目尻から、一滴の涙が静かに滑り落ちる。
手足の感覚を確かめるように動かしてみたが、不幸中の幸いか、傷はさほど深くはなかった。
巡回に来た若い看護師は、彼女が目を覚ましているのを見るなりパッと表情を輝かせ、嬉しそうに話し始めた。「旦那様、本当に優しい方ですね。わざわざ高名な専門医の先生方を何人も呼び寄せて検査させて、病院の隣のホテルに待機までさせていらっしゃるんですよ。
神崎様が検査を受けている間、旦那様はずっと外で床に膝をついて祈っていらして。ご無事が確認できるまで、絶対に立ち上がろうとなさらなかったんです」
夜瑠の瞳に感情の波は一切なく、ただ淡々と口を開いた。「あの人は、夫ではありません」
看護師が驚きに目を丸くしたその時、晏臣が足早にドアを押し開けて入ってきて、会話を遮った。
「夜瑠、気がついたか?飯を買ってきたんだが、腹は減ってないか?」
夜瑠は彼が手に提げた吉扇のテイクアウトの包みを見つめ、次いで彼の襟元に生々しく残る真っ赤なキスマークへと視線を滑らせた。だがそれを暴くような真似はせず、ただ静かに視線を上げて尋ねる。
「乗馬クラブのこと、調べた?」
晏臣は白湯の入ったグラスを差し出しながら、少しの動揺も見せない声で答えた。
「ああ、調べさせた。馬具の経年劣化と、新しく変えた飼葉が馬の口に合わなかったせいで暴れたらしい。ただの不運な事故だ。担当していたスタッフはすでに解雇したよ」
彼はうつむき加減で、親指の腹で人差し指をこすり合わせていた。それは彼が嘘をつく時に必ず見せる、無意識の癖だった。
「夜瑠、あの時、雪乃が仕事のことで俺に相談を持ちかけてきていて……だから真っ先に俺がお前を庇えなかった。あいつも酷く自分を責めているんだ。この件はもう、不問に付してやれないか?」
夜瑠はそっと目を閉じた。
脳裏をよぎったのは高校時代のこと。ある男子生徒がふざけて夜瑠の手にペン先を突き刺し、怪我をさせたことがあった。それを知った晏臣は狂ったように激怒し、その男子生徒の家族は3日と経たずに海市から完全に姿を消した。
それなのに今、彼女が雪乃の悪辣な罠によってこれほどの怪我を負わされたというのに、彼はまるで何事もなかったかのように「不問に付してやれ」と言う。
胸の奥に酷く息苦しかったが、不思議なことに、数日前に感じていたような心臓をえぐる痛みは、もう微塵も残っていなかった。
彼女は静かに息を吐き出し、窓の外を流れる雲へと視線を移した。
――もうすぐだ。もうすぐ、自分だけの自由な人生を取り戻せる。
……
3日後、夜瑠は退院の日を迎えた。
晏臣は彼女をサロンへ連れて行って完璧にドレスアップさせると、そのまま海市大学へと連れ出した。
「夜瑠、今日は海市大学の卒業式なんだ。学長から特別に招待されていてね。お前の気晴らしにもちょうどいいと思って」
彼女は晏臣の隣の席に座り、雪乃が優秀卒業生として壇上でスピーチをする姿を見つめていた。
晏臣の眼差しは雪乃に釘付けで、その瞳には甘やかすような慈しみと賛美が、隠しようもなく溢れ返っている。
本当なら、あそこでスピーチをするのは夜瑠のはずだった。
指導教官から優秀卒業生としてのスピーチを任されたとき、彼女は心から胸を躍らせていた。
客席に座る晏臣が驚きに目を丸くする様子を思い浮かべ、彼が自分を誇りに思ってくれる瞬間を心待ちにしていた。
けれど、あのプロポーズを目の当たりにしてから、彼女はその大役をきっぱりと辞退した。
ただ静かに、誰にも気づかれずにここから去りたかった。晏臣はとうの昔に、彼女が心を込めて用意したサプライズを受け取る資格を失っていた。
雪乃が壇上から降りると、晏臣は手洗いに行くと言って席を立った。
夜瑠はその隙に、ドレスの上から受け取ったばかりのアカデミックガウンを羽織り、足早に指導教官を探し出して記念撮影をした。
指導教官は夜瑠の姿を認めると、その瞳に惜しみない誇らしさと温もりを湛え、航空券と必要な書類をそっと手渡してくれた。
「夜瑠さん、君のこれからの前途が、輝かしいものでありますように」
指導教官に別れを告げて振り返ったちょうどその時、晏臣が歩み寄ってきた。
彼女のその出で立ちを見るなり、彼は驚きに目を丸くした。「夜瑠、どうしてアカデミックガウンなんて着ているんだ?その手に持っているのは何だ?」
第6話
夜瑠は静かに視線を上げ、平然とした顔で答えた。
「大学でお借りしたの。私、大学に通ったことがないから、少し体験してみたくて」
彼女は手に持っていた航空券と書類を振って見せ、淡々とした口調で続けた。「これは拾い物よ。ちょうど警備室へ届けに行こうと思っていたところ」
彼女の瞳に浮かぶ寂寥の色を見て、晏臣の胸の奥にふと微かな罪悪感が込み上げた。
もしあの時、自分の異常なまでの独占欲さえなければ、夜瑠も今日この場所で卒業生としてアカデミックガウンを身にまとい、壇上で拍手喝采を浴びていたはずなのだ。
彼は声のトーンを和らげた。「それなら、俺も一緒に行こう」
そう言って、彼女の手からそれらを受け取ろうと手を伸ばす。
ちょうどその時、学長が彼に写真撮影を求めて歩み寄ってきた。夜瑠はその機に乗じてすっと身をかわした。「あなたは先にお仕事を済ませて。私一人で行ってくるから」
道を歩いていると、木に寄りかかって彼女を待ち伏せている雪乃の姿があった。その顔には、隠そうともしない得意げな笑みが張り付いている。
「もう全部知ってるんでしょ?あ、そうよね。送るべきものは全部送ってあげたんだし」彼女は小首を傾げて笑った。「馬から落ちたの、すごく痛かったんじゃない?彼が初めて私に声をかけてきた時、なんて言ったか知ってる?」
雪乃はわざともったいぶるように間を置いた。「『雪乃、夫として、お前を3年間養わせてほしい』って言ったのよ」
夜瑠は口角を微かに引きつらせ、冷たく鼻で笑った。「つまり、最初からわざと私に近づいたってことね?私を弄んで、そんなに楽しかった?」
雪乃はさらに笑い声を上げた。「ええ、そうよ!一体どんな顔をしてるのか見てやりたかったの。なんで男たちがどいつもこいつも、あなたのことばかり未練がましく引きずってるのかってね!言ってる意味が分からない?大丈夫、どうせすぐに分かるから」
突如、彼女のスマートフォンが鳴った。画面に目を落とした後、夜瑠をちらりと見やり、勝者の優越感に満ちた眼差しを向けた。「夫からお呼びだわ。じゃあ、また夜にね」
その「また夜に」の意味を、夜瑠はほどなくして思い知ることになる。
晏臣は夜瑠のために誕生日パーティーを用意していた。舞台は貸し切りの豪華客船だ。
オープニングを飾る花火が今まさに打ち上がろうとした時、晏臣は雪乃を壇上に呼び寄せ、夜瑠を振り返って言った。「夜瑠、奇遇なことに、俺のアシスタントもお前と同じ誕生日なんだ。二人で一緒に、オープニングの合図をしてくれないか」
彼はさらに言葉を継いだ。「乗馬クラブの件で、雪乃はずっと悔やんでいたんだ。今日を機に、過去のしこりは水に流してやってほしい」
夜瑠の視線は、雪乃が身にまとっている、無数のダイヤモンドが眩く煌めくドレスに静かに注がれていた――それは去年、晏臣が夜瑠にバレンタインデーの贈り物として特注してくれたものだった。
あの時、彼はこう言ったのだ。「こんなにも眩い輝きが似合うのは、俺の夜瑠だけだ」と。
夜瑠がドレスをじっと見つめているのに気づき、晏臣は慌てて弁解した。「雪乃がふさわしいドレスを持っていなかったから、俺がお前のクローゼットから適当に見繕って貸したんだ」
彼は夜瑠の耳元に顔を寄せ、甘く囁いた。「いい子だから、な?後で、もっといい新しいやつを買ってやるから」
夜瑠は彼をそっと押し返し、無表情のまま言った。「私の手はまだ治っていないから。彼女に一人でやってもらって」
そう言われて、晏臣はすぐさま彼女を席に座らせ、額にかかる後れ毛を優しく直してやった。「俺としたことが、忙しくてすっかり忘れていた。手はまだ痛むか?」
彼女は手を引っ込めた。「お客様の相手をしてきて。私は一人で少し休みたいから」
晏臣が立ち去ると、ホールの喧騒が少しだけ遠のいたように感じられた。
突如スポットライトが点灯し、中央に置かれたグランドピアノを眩く照らし出した。
聴き慣れた旋律が流れ出す。
晏臣と雪乃は並んでピアノの前に座り、他人が立ち入る隙もないほどの親密さを漂わせていた。二人の連弾は、完璧に息が合っている。
一曲が終わると、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
招待客たちのひそひそ話が、嫌でも夜瑠の耳に飛び込んできた。
「あの曲って、恋人同士が弾く定番じゃない?桐生社長、あれって事実上の交際宣言かしら?」
「滅多なことを言うもんじゃないよ。桐生社長には昔から大事に囲ってる本命がいるのよ。命の恩人だからって、目の中に入れても痛くないほど溺愛してるって話だし……」
「はっ、一条家で3日3晩も無茶苦茶に弄ばれたっていう、あの『命の恩人』のこと?そんな傷物の女、まともな男なら耐えられるわけないだろ……」
ぞっとするような悪寒が瞬時に全身を駆け巡り、夜瑠は抑えきれない震えに襲われた。
晏臣は人波をかき分け、夜瑠の傍らへ戻ってきた。「夜瑠、気に入ったか?お前のために特別に用意したんだ。雪乃がちょうどあの曲を弾けると言ってくれて……」
夜瑠はただじっと、射抜くように彼を見据えていた。
彼の声は次第に勢いを失っていく。彼はそっと手を伸ばし、氷のように冷え切って震える夜瑠の手を包み込んだ。
「……やきもちを焼いたのか?夜瑠、俺とあいつの間には何もない。俺たち、一緒に18年も寄り添ってきたじゃないか。信じてくれ、俺の心にはお前しかいないんだ。
あいつは会社と奨学支援プログラムを結んでいるから、仕方なく傍に置いているだけだ」
晏臣は彼女の手を握ったまま甲板へと歩み出た。ちょうど遠くで花火が打ち上がり、幾重にも重なって夜空一面を鮮やかに染め上げていく。
「夜瑠、俺は……」
彼の言葉は、唐突に鳴り響いた着信音によって遮られた。
雪乃からの電話だった。受話口から聞こえる声は、極度のパニックに陥っていた。
「晏臣!神崎さんがどこにいるか知ってる!?神崎さんに埠頭に呼び出されて、ドレスを返せって言われて……私、もう着替えて、今すぐお返ししようと……ここ、すごく暗くて……きゃあっ!?あ、あなたたち、誰!?」
直後、スマートフォンが地面に落ちる鈍い音が響き、女の悲鳴と男たちの下卑た嘲笑が入り混じって聞こえてきた。
「どこのどいつだ、こんな上等なタマを俺たち一条家のシマに放り込んできやがったのは?ありがたく頂戴しようぜ……」
「た、助けて……触らないで!神崎さん、どこにいるの……っ、来ないで!」
衣類が乱暴に引き裂かれる生々しい音を最後に、通話はぷつりと途絶えた。
晏臣はスマートフォンを握りつぶさんばかりに力み、猛然と夜瑠を振り返って睨みつけた。
第7話
「私じゃないわ」夜瑠はスマートフォンを取り出し、身の潔白を証明しようとした。「彼女と通話なんてしていない」
晏臣はふっと笑みを漏らし、手を伸ばして彼女を強く腕の中に抱きしめた。「夜瑠、何を怯えているんだ?俺が赤の他人の言葉を鵜呑みにして、お前を疑うわけがないだろう」
夜瑠は呆然と彼を見つめた。だが、必死に感情を押し殺すあまり引きつった彼の表情からは、その真意を何ひとつ読み取ることができなかった。
「夜瑠、何が起きたのか調べてくる」
彼は腕を解くと、その指先で彼女の頬をそっとなぞった。「今夜は物騒だ。先にボディガードをつけて、お前を邸宅へ帰すよ。ぐっすり眠って、目が覚めた頃にはすべて元通りになっているはずだ」
彼はボディガードを呼び寄せ、彼らが夜瑠を護衛して車に乗り込むのをその目で見届けた。
車のドアが閉まった瞬間、空をつんざくような雷鳴が轟いた。大粒の雨がバラバラと打ちつけ、瞬く間に視界を遮るほどの土砂降りへと変わる。
先ほどまで夜空を華やかに彩っていた花火も、この豪雨に叩き落とされて微かな火花を残すのみとなった。それはまるで、彼女と晏臣が紡いできた18年という絆が、なんの前触れもなく無惨に消え失せてしまったかのようだった。
夜瑠は降りしきる雨の中に立ち尽くす男を見つめた。その姿は、ほどなくして白く立ち込める水煙の彼方へと消え去っていった。
突然、黒い布がすっぽりと頭から被せられた。鼻をつく強い薬品の匂いが肺に流れ込み、意識は一瞬にして暗い闇の底へと沈んでいった。
意識が途切れる直前、車に乗り込む間際に見た晏臣の、あの氷のように冷たい眼差しが不意に脳裏をよぎった。
――彼はわざとやったのだ。甘い優しさで彼女を麻痺させ、警戒を解かせるために。
再び目を覚ました時、彼女はなぜか普段着に着替えさせられており、手足は太いロープで固く縛り上げられ、口には粘着テープが貼られていた。
ぼやける視界の先に、晏臣の姿が映り込んだ。
彼はひどく冷ややかな目で夜瑠を一瞥すると、すぐに興味を失ったかのように視線を外した。
叫びたかった。問い詰めたかった。だが、薬のせいか、指先ひとつ動かす力さえ入らない。
ボディガードに無造作に引きずられ、彼の傍らを通り過ぎようとしたその時、晏臣は冷酷な声で言い放った。「夜瑠、自分が一条家に汚されたからといって、雪乃まで道連れにしようとするな」
夜瑠の目から、堰を切ったように涙があふれ出した。
彼はついに口にしたのだ。彼女があの地獄から、清らかな体のまま逃げ延びたのだということを、晏臣は最初から微塵も信じていなかった。
だからだ。以前、彼女の妊娠が判明した直後、不自然な「交通事故」に巻き込まれてお腹の子供を失ったのは。
あれは不慮の事故などではなかった。
晏臣が、その子供を自分の子だと信じなかったから。
後悔が全身を駆け巡る。
身を挺してまで彼を救い出したのに、その見返りが彼の嫌悪と裏切りであり、あろうことか二人の子供まで、彼自身の手で殺されてしまったのだから。
「一条家に連れて行け。雪乃と交換だ」
その無慈悲な宣告に、夜瑠は必死に身をよじって抵抗した。
嫌だ。あの地獄へだけは、二度と戻りたくない。
だが四肢を屈強な男たちに押さえつけられ、微かな抵抗すら許されない。
絶望で精神が崩壊しかけたその時、不意に晏臣の声音が優しく甘いものに変わった。「夜瑠、待っていてくれ。俺が必ず、すぐに助けに戻るから」
彼女は絶望に目を閉じ、ただとめどなく涙を零すことしかできなかった。
引きずられて遠ざかる彼女の背中を見送っていた晏臣は、突如として言い知れぬ胸のざわめきに襲われ、鋭く声を張り上げた。「待て!そいつの袖をまくり上げろ!」
ボディガードが命じられるままに袖をまくると、そこには何も身につけていない、ほっそりとした左手首があらわになった。
その瞬間、晏臣の極限まで張り詰めていた神経が、ふっと緩んだ。
――ない。あの数珠のブレスレットがない。
なら、こいつは夜瑠じゃない。
用意させた身代わりは、夜瑠にあまりにも似すぎている。危うく彼自身でさえ見間違えるところだった。
祖父は言っていた。桐生家があの女の家族に一生不自由しないだけの補償を用意し、本人も納得の上で引き受けた役目なのだと。
彼は念には念を入れ、ボディガードに邸宅の監視カメラの映像を映し出させた。画面の中で静かに座っている夜瑠の無事を確認して、ようやくあの「身代わりの女」が一条家へ引き渡されるのを黙認したのだった。
だが、「身代わり」として一条家へと送り込まれた夜瑠本人は、そんな晏臣の勘違いなど知る由もなかった。
彼女は、全身に痛々しい青痣を作り、ボロボロに服を引き裂かれた雪乃が奥から歩き出してくるのをその目で見た。
夜瑠の傍らをすれ違う瞬間、あの女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、声には出さず「死ね」と口の形だけで動かしてみせた。そして次の瞬間には、今にも倒れそうな弱々しい足取りで、晏臣の腕の中へと崩れ落ちた。
「雪乃、もう怖がらなくていい。迎えに来たよ」
晏臣は甘く優しい声でなだめながら、自分の上着を脱いで雪乃の身を包み込んだ。壊れ物を扱うように彼女を抱き上げると、夜瑠を一度も振り返ることなく、車を発進させて去っていった。
背後で、重厚な鉄の扉がガシャンと無情な音を立てて閉ざされた。夜瑠は再び、一条家という名の地獄に完全に閉じ込められてしまった。
息が止まるほどの絶望から我に返るより早く、首筋に冷たい鉄の鎖が叩きつけられた。
鎖のもう一端を握っていたのは――一条家を牛耳る当主、一条彰浩(いちじょう あきひろ)だった。
金縁の眼鏡をかけた彼は、ゆっくりと鎖を揺らした。
「神崎さん、また会えたな。あの時、一晩俺に抱かれろと言ったのを蹴って、晏臣に操を立てるためだと言って、我が一条家の『修羅の陣』に挑んだのはお前だったな」
彼は笑いを漏らした。「いやはや、可哀想に。晏臣はお前が俺に散々弄ばれたと思い込み、あろうことか自分の子供まで迷いなく殺したそうだ。
今回はさらに滑稽だ。他の女のために、自らの手でお前を俺の元へと送り届けてくれた」
彰浩は冷酷な笑みを浮かべて身を乗り出した。「夜瑠――今度ばかりは、もう逃げられないぞ」
彼は手を伸ばし、夜瑠の口に貼られていた粘着テープを荒々しく引き剥がした。強力な粘着力で皮膚が引きちぎられそうな痛みが走る。
息をつく暇もなく顎を力任せに掴まれ、氷のように冷たい錠剤を無理やり喉の奥へと押し込まれた。
彰浩は夜瑠を引きずって、大きなベッドが一つだけ置かれた無機質な部屋へと放り込み、彼女のスマートフォンを足元に投げ捨てた。
「10分後に、その薬の効果が現れる。晏臣に電話をかけるチャンスを10回だけやる。奴が10分以内にここへ駆けつけてきたら、お前を逃がしてやるよ。
小細工は考えるな。かけられるのはあいつだけだ。それができなければ――お前は一生、この部屋から出られない」
夜瑠は下腹部から急速に立ち昇ってくる異常な熱気を感じながら、震える指先で、脳裏に焼きついているあの番号をタップした。
第8話
1回目は、単調なコール音が鳴り響くだけだった。
2回、3回……そして9回目になっても、電話の向こうからは誰も出ない。
彰浩は傍らで腕を組み、計画通りだと言わんばかりの笑みを浮かべて見下ろしている。
夜瑠の心は、少しずつ絶望のどん底へと沈んでいった。
10回目。ついに通話が繋がった。
彼女は叫んだ。「お兄ちゃん、早く助けに来て!彰浩に、薬を飲まされて!」
この「お兄ちゃん」という呼び方は、二人の間にだけ通じる秘密の暗号だった。
もし彼女がそう呼べば、それは危険が迫っていることを意味し、彼がどんな状況であれ最速で駆けつけるという約束だった。
だが、受話口から聞こえてきたのは、予想していたような焦燥や動揺ではなく、興奮を隠しきれない晏臣の弾んだ声だった。
「雪乃、妊娠したって!?ああ、本当によかった!」
続いて、雪乃の泣き声混じりの甘えた声が耳に届く。「あなた……さっきすごく怖かったの。急にお腹が痛くなって……」
「大丈夫だ、今すぐ病院へ連れて行くからな」
晏臣の声には、痛々しいほどの慈しみと気遣いが滲んでいた。
「でも、神崎さんが……」
「雪乃、今はお前と子供のことが一番だ。他のことは何も考えるな。いい子だから」
「じゃあ、私たちの結婚式は……」
「もちろん、予定通りに挙げるさ」
「ああっ、ごめんなさい、手が滑って押しちゃったみたい。切るわね」
ツーツーという無機質な音が鳴り響く。それはまるで刀のように、何度も打ち据え、夜瑠に残された最後の希望を無残に断ち切っていった。
彰浩が吹き出すように笑い、自らのスマートフォンを取り出して晏臣の番号へ発信した。
晏臣は即座に出たが、その声は冷淡で苛立ちに満ちていた。「彰浩、あいつはもう渡したはずだ。これ以上俺に付き纏うな!」
彰浩はスピーカーを最大音量にし、喉を鳴らして笑った。「ほう?じゃあ、あの女をどう処分しようと俺の勝手というわけだな」
「好きに弄んで殺そうが知ったことか!二度と俺を煩わせるな!」晏臣の怒号の向こうから、不意に雪乃の悲鳴が割り込んだ。「雪乃!どうした、しっかりしろ!」
ブツッと無情にも通話は切られた。
彰浩のねっとりとした手が頬を這い、夜瑠は激しい嫌悪に身を震わせながら猛然と顔を背けた。
「聞こえたか?これで完全に諦めがついただろう」
彼女は自分のスマートフォンを掴み取り、再びあの番号へと発信した。
頭の中にあるのはただ一つの考えだけだった。
――晏臣、電話に出て。
「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」という冷酷な電子音声が流れた瞬間、夜瑠の心は底なしの奈落へと墜落した。
電源を切ったのだ。
真っ暗になった画面を見つめながら、夜瑠は顔中を涙でぐしゃぐしゃにして笑い出した。
ああ、これが晏臣の言う「愛」だったのだ。
自分が地獄の淵でもがいているとき、あの男は別の女と新しい命の誕生を祝っている。
朦朧とする意識の中、7歳のあの冬、野犬の群れから自分を救い出してくれた晏臣の姿が幻のように浮かび上がった。
星のように澄んだ瞳をした少年は、湯気を立てる熱々の焼き芋を彼女の手に押し付け、力強く言い放った。「腹いっぱい食ったら、あいつらを全部ぶっ飛ばしてやる。そしたら一緒に帰ろうな」
時は巡り、16歳。彼女に言い寄る男たちを一人残らず追い払った彼は、ひどく傲慢に眉を吊り上げて威嚇した。「俺の女に手を出す度胸が、どこのどいつにあるってんだ」
だが情景は無残に反転し、永遠の愛を誓ったはずのその男が、今、別の女の前に片膝をつき、ダイヤの指輪を差し出している。
抗おうとする気力が、唐突に音を立てて砕け散った。
体内で猛り狂う熱波が渦を巻き、彰浩のあの偽善に満ちた顔つきでさえ、なぜか抗いようのない毒のような色気を帯びて見え始める。
彼女は自らの腕に深く歯を立てた。激痛が、かろうじて理性の端を繋ぎ止める。
彰浩がストップウォッチを掲げた。
冷酷な秒読みのカウントが響き渡る。「10、9、……1」
ドアンッ。鼓膜を破るような轟音と共に、分厚い扉が蹴破られた。
雪崩れ込んできた黒服の男たちが、目にも留まらぬ一撃で彰浩を殴り倒し、昏倒させる。
夜瑠は薄暗い照明の中、視線を巡らせた。先頭に立っていたのは、長身で引き締まった体躯の男だった。
男が歩み寄るにつれ、その整った彫りの深い顔立ちがあらわになる。
なぜか、胸を締め付けるような不思議な既視感があった。
男の低く響く声が、深い霧の彼方から届くように、微かに耳を打った。
「夜瑠、俺は君の婚約者だ。君のお兄さんに頼まれて、迎えに来た。夜瑠?大丈夫か?」
「ボス、この薬は早く手を打たないと……深刻な後遺症が残ります」背後に控える部下の声には、切迫した焦りが滲んでいた。
夜瑠は、掌に氷のように冷たい何かを押し込まれるのを感じた。
目の前の男は、なおも子供をあやすように優しく語りかけている。「夜瑠、俺は君の婚約者だ。連れて帰ったらすぐに式を挙げよう。今は、君を助けに来たんだ……」
だが、体の中から噴き上がる熱波に骨の髄まで溶かされそうな夜瑠の耳には、もはやどんな言葉も届かなかった。彼女は本能で腕を伸ばし、目の前の男の首にしがみつく。
その後に起きたことは、抗う術もない、ごく自然な成り行きだった。
微かに残された理性の片隅で、夜瑠は心の中で静かに告げた。
――晏臣。私たちはもう、二度とあの頃には戻れない。
再び微睡みから意識を取り戻すと、視界の両脇の景色が後退していくのが見えた。
自分が誰かの腕に抱えられたまま移動しているのだと、遅れて気がつく。
彼女が瞼を持ち上げたのを認め、男は視線を落とし、小さなリモコンを彼女の手のひらに握らせた。「夜瑠、これを押せ。そうすれば、君はここのすべてと完全に決別できる」
夜瑠は呆然とリモコンを見つめていたが、男の励ますような温かい眼差しに促され、指先に力を込めてスイッチを押した。
男は低く笑った。「上出来だ」
リモコンを回収して無造作に放り捨てると、彼女の頭を優しく撫でた。「安心しろ、君に必要なものはすべて揃えてある。君のスマートフォンは、あの男宛てに送っておいた」
男は一拍置いて告げた。「あいつが知るべき真実は、すべてあの中に詰まっている」
夜瑠は小さく頷いた。無数の疑問が渦巻いていたが、呼吸をするだけで喉が焼けつくように痛み、今は何も聞き出すことができなかった。
彼女は知る由もなかった。リモコンのスイッチが押されたその刹那、二つの場所で巨大な火柱が夜空を焦がしたことを。
一つは、一条家の本拠地。
そしてもう一つは、彼女と晏臣がかつて共に暮らしたあの邸宅だった。
さらに、晏臣が彼女を逃がすために手配していた専用航路――W国へ向かうはずのプライベートジェットは、10分後に深海へと墜落する運命にあった。
男に抱きかかえられたまま専用機へと足を踏み入れ、柔らかいシートにそっと降ろされた時、耳元で甘く優しい声が響いた。「いい子だ。さあ、家に帰ろう」
夜瑠は静かに目を閉じた。
――晏臣、これからあなたが誰を妻に迎え、誰と子どもを作ろうと、私にはもう何の関係もない。