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母は養妹を救い、実の娘を見殺しにした
婚姻届を出しに行く途中で交通事故に遭い、私・高梨千紘(たかなし ちひろ)は同乗していた養妹の西野美月(にしの みつき)と一緒に病院へ運び込まれた。 外科の名医として知られる母、高梨恵理子(たかなし えりこ)は、背中を血まみれにした私を一瞥しただけだった。 そして、腕に5センチほどの傷を負った美月のもとへ医療スタッフを集め、緊急に診察させた。 「美月の傷は目立つ場所にあるの。早く処置しないと、痕が残るかもしれないでしょう。私たちは実の親子よ。こんなときにあなたを先に診たら、身内を優先したと言われかねないわ。美月の処置が終わったら、あなたも診るから」 私は、白衣に着替えたばかりの婚約者、桐谷拓海(きりたに たくみ)の腕をつかんだ。 「拓海、助けて……」 だが、最後まで言う前に、拓海は冷たく私の手を振り払った。 「お前は一番安全な後部座席にいた。助手席にいた美月より重傷なはずがないだろ。千紘、どうして何でも美月と張り合おうとするんだ?」 拓海は振り返りもせず、慌てて処置室へ駆け込んだ。 けれど、拓海は忘れていた。 事故の瞬間、美月を守るためにハンドルを逆方向に切り、後部座席の私に衝撃をすべて受けさせたのは、ほかでもない彼だった。 母も忘れていた。 私の手首につけられた赤いタグが、「最優先で救命処置が必要」という意味であることを。 意識がかすみ始めた。 体内に深く刺さったガラス片が、もうすぐ私の命を奪うのだと分かった。
チャプター (1)
第1章
婚姻届を出しに行く途中で交通事故に遭い、私・高梨千紘(たかなし ちひろ)は同乗していた養妹の西野美月(にしの みつき)と一緒に病院へ運び込まれた。
外科の名医として知られる母、高梨恵理子(たかなし えりこ)は、背中を血まみれにした私を一瞥しただけだった。
そして、腕に5センチほどの傷を負った美月のもとへ医療スタッフを集め、緊急に診察させた。
「美月の傷は目立つ場所にあるの。早く処置しないと、痕が残るかもしれないでしょう。私たちは実の親子よ。こんなときにあなたを先に診たら、身内を優先したと言われかねないわ。美月の処置が終わったら、あなたも診るから」
私は、白衣に着替えたばかりの婚約者、桐谷拓海(きりたに たくみ)の腕をつかんだ。
「拓海、助けて……」
だが、最後まで言う前に、拓海は冷たく私の手を振り払った。
「お前は一番安全な後部座席にいた。助手席にいた美月より重傷なはずがないだろ。千紘、どうして何でも美月と張り合おうとするんだ?」
拓海は振り返りもせず、慌てて処置室へ駆け込んだ。
けれど、拓海は忘れていた。
事故の瞬間、美月を守るためにハンドルを逆方向に切り、後部座席の私に衝撃をすべて受けさせたのは、ほかでもない彼だった。
母も忘れていた。
私の手首につけられた赤いタグが、「最優先で救命処置が必要」という意味であることを。
意識がかすみ始めた。
体内に深く刺さったガラス片が、もうすぐ私の命を奪うのだと分かった。
第1話
拓海があまりにも強く手を振り払ったため、負傷していた私はバランスを崩し、廊下の床に激しく倒れ込んだ。
その瞬間、背中から何かが裂けるような鈍い音がした。
短いうめき声が喉から漏れた。
倒れた拍子に、背中に刺さっていたガラス片がさらに深く体内へめり込んだ。
私は床にうずくまった。照明が目に刺さり、周囲の景色がぐるぐると回って見えた。
「看護師さん……」
ナースステーションにいた看護師が一人立ち上がり、こちらを見た。だが、すぐにまた座った。
「起こして……先生を呼んでください……」
誰も答えなかった。カルテの整理を続ける者もいれば、背を向け、大きな音を立ててスマホの動画を見始める者までいた。
「看護師さん……」
「高梨さん、自分で起きて、待合スペースで待っていてください」
ようやく一人が口を開いたが、その声には苛立ちがにじんでいた。
「高梨院長から何度も言われています。あなたに近づいて、特別扱いを求めようとする者は厳しく処分する、と。
先週だって、宮下先生がブライダルチェックのときにあなたを優先して案内しなかったというだけで、リネン室へ回されたんですよ」
私は言葉を失った。
「優先」といっても、宮下先生は整理し終えた検査結果を、その場で私に渡してくれただけだった。
それなのに、「身内だからと特別扱いはしない」という母の方針で、医師の仕事から外され、シーツの消毒をさせられていたのだ。
説明しようと口を開いたが、背中の傷に響き、また激しいめまいに襲われた。冷や汗が止まらなかった。
それでも、看護師たちの話は続いた。
「高梨院長は厳しいけど、公平さだけは徹底しているよね」
「そうそう。余計なことはしないほうがいいよ。医師でさえあんな処分を受けるんだから、私たちが逆らったら、仕事を失うかもしれないし」
床の冷たさと、背中に広がる生温かい湿り気が混ざり合い、奇妙な感覚になった。
呼吸はどんどん重くなっていくのに、意識だけは妙にはっきりしていた。
アドレナリンが効いているのだと分かった。
それが切れたとき、最悪の事態が訪れる。
床の目地に爪を立て、必死に体を起こそうとした。
だが、そのたびに、さらに無様な格好で床に崩れ落ちた。
「大変!」
待合スペースにいた中年の女性が、口元を押さえて私を指さした。
「床に血が……」
ナースステーションにいた者たちの顔色が、ようやく変わった。それでも互いに押しつけ合い、すぐには誰も動かなかった。
やがて、実習生の制服を着た若い看護師、佐伯真帆(さえき まほ)が駆け寄ってきた。
私を支えようとした真帆の手が背中に触れた途端、その顔が青ざめた。
「どうして……ここに……」
彼女が指先でそっと押すと、私は鋭く息をのんだ。
「皮膚の下に硬いものがある……」
真帆の声が震えた。
「ただの擦り傷じゃない。異物が深いところまで入っている……まさか、内出血?」
真帆はすぐに立ち上がり、よろめきながら処置室へ走った。
切迫したノックの音が、救急外来に響き渡った。
「高梨院長!早く来てください。千紘さんの様子がおかしいんです!」
第2話
真帆が5分近く扉を叩き続けた末、固く閉ざされていた扉がようやく開いた。
母は険しい顔で出てきた。
「佐伯さん、何を騒いでいるの?」
真帆は床に横たわる私を指さし、緊張でつかえながら説明した。
「高梨院長、千紘さんは内出血を起こしているかもしれません!」
母は眉をひそめ、私のそばにしゃがみ込むと、背中の服を無造作にめくった。
「傷はあるけれど、ただの表皮の損傷よ」
立ち上がって手を払い、あからさまに苛立った目を真帆に向けた。
「佐伯さん、看護学校で何を学んできたの?こういう擦り傷は見た目こそひどいけれど、細い静脈がいくつか傷ついて、出血が多く見えるだけよ。待合の患者ならともかく、あなたまで大騒ぎしてどうするの?」
真帆は顔を真っ赤にして訴えた。
「院長、本当に、下に硬いものが……」
「もういい!」
母は真帆の言葉を遮った。
「背中は骨の構造が複雑だから、看護師のあなたが骨を異物と勘違いしても無理はないわ。慎重に確認した姿勢だけは評価するわ。でも、これ以上、救命処置の妨げになるなら、実習評価を見直さなければならないわね」
そう言い終えると、母は私の腕を乱暴に引いた。
「いつまで床に寝ているつもり?」
ガラス片がずれ、どこか別の場所に突き刺さった。
私は歯を食いしばり、母のズボンの裾をつかんだ。
「お母さん、助けて。本当に痛いの……」
裾が勢いよく引き抜かれた。母の声が耳の奥で鈍く響いた。
「拓海も言っていたでしょう。事故のとき、あなたは一番安全な後部座席にいたって。美月は助手席にいて、あなたの代わりにけがをしたのよ。それなのに、まだ順番を争うつもり?」
真帆が突然、私の手首を指さした。
「高梨院長、千紘さん、赤いタグをつけています!」
母の声が一瞬止まった。
だが次の瞬間、その目には、すべて分かったというような色が浮かんだ。
「搬送を担当した医師に、私のことを話したのね?院長の娘だからと赤いタグをつけてもらって、優先的に運び込ませたんでしょう?千紘、私はあなたをそんなふうに育てた覚えはない」
母は突然声を張り上げた。救急外来の隅々まで響くほどの大声だった。
「外では大勢の患者が処置を待っているのよ。それなのに、私との関係を使って順番を抜かそうとするなんて。私が許したところで、ほかの患者が納得すると思う?」
待合スペースが一気に騒がしくなった。
「ふざけるな!こっちは何時間も待ってるんだぞ!」
「院長の娘だから何だっていうの?順番くらい守るべきでしょう!」
「若いくせに、よくそんな厚かましいことができるわね」
母は片手を上げ、次第に大きくなる非難の声を鎮めた。
そして、私を見下ろした。
「聞こえた?恥ずかしくないの?公平を期すために、今日はあなたを最後に診るわ。勝手に赤いタグをつけた搬送担当の医師についても、厳正に処分する」
待合スペースから拍手が起こり、親指を立てる者までいた。
「さすが院長先生だ。身内にも甘くない」
母は満足そうな表情を浮かべた。
そのとき、処置室の扉が再び開き、拓海が飛び出してきた。
床にいる私を見て、足を止めた。
「千紘?どうして……」
「甘えているだけよ!」
母は拓海の言葉を遮った。
「それより、美月はどうなの?」
拓海の視線は私の上をかすめただけで、すぐに母に向けられた。
「傷口が不規則なので、縫合すると痕が残るかもしれません……」
「そんなの駄目よ!若い女の子の腕に傷痕が残ったら、どれほどつらいと思っているの?」
母は拓海の腕をつかみ、処置室へ引き戻した。
「私が縫うわ。あなたは助手に入って。ほかの医師にも、万全の態勢で臨むよう伝えて!」
引っ張られた拓海はよろめき、ためらうように私を見た。
そのとき、処置室から美月の泣きそうな声が聞こえた。
「拓海くん、縫われるのが怖い……そばにいてくれない?」
拓海の顔にわずかに浮かんでいた気遣いは、すぐに消えた。
彼は振り返りもせず、処置室へ駆け込んだ。
扉が閉じる直前、母の優しい声が聞こえた。
「美月、大丈夫よ。お母さんがいるからね」
冷たい床に横たわりながら、母が最後にあんな優しい声を自分にかけてくれたのは、いつだっただろうと考えた。
第3話
父と離婚したあと、母は一人で私を育てた。
私は幼い頃から体が弱かった。
外科医として将来を嘱望されていた母は、私の世話をしやすいよう、わざわざ小児科の医局へ移ったほどだった。
拓海は隣の家に住んでいて、子どもの頃からいつも私を守ってくれた。
母が夜勤の日に高熱を出したことがあった。あのときも、拓海は頑として私のそばを離れず、一晩中看病してくれた。
大学へ進むときには、難関大学を目指せる成績だったにもかかわらず、迷わず医学部を選び、母の最後の教え子になった。
「千紘、俺が一生、お前を守るから」
いったい、いつから変わってしまったのだろう。
母が、私の同級生で家庭に恵まれなかった美月を養女に迎えてからだった。
美月は色白で美しく、風に吹かれただけで倒れてしまいそうなほど華奢だった。
それでも、いつもけなげに「大丈夫」と言って、つらさをこらえているように見せていた。
初めのうち、母はこう言っていた。
「美月には両親がいないうえ、体も弱いの。あなたが面倒を見てあげて」
だが、そのうち美月を抱き寄せながら、眉をひそめて私を見るようになった。
「美月を見てみなさい。あんなに聞き分けがよくて、気丈でしょう。あなたも少しは自立したら?些細なことで、いつまでも甘えないの」
私が傷ついていることに気づいた拓海も、当初は美月を嫌っていた。
「あの子、いかにも計算高そうだな。お母さんの前で演技ばかりしてる」
ところが、少しずつ、美月を見つめる時間が長くなった。
「あいつも大変だったんだろ。それでも気丈に振る舞ってるのを見ると、放っておけない……千紘、お前が少し譲ってやれよ」
今日も、私は拓海と婚姻届を出しに行くはずだった。
ところが、美月が「お祝いに話題の店のケーキを買いたい」と言い出した。
拓海は迷わず遠回りし、遅れを取り戻そうと赤信号まで無視した。そして大型トラックと衝突した。
事故の直前、拓海は勢いよくハンドルを切り、車体を横向きにした。
拓海と美月は、ほとんどけがをしなかった。
だが、私のいた後部座席は、数トンもあるトラックに押しつぶされた。割れたガラスが皮膚を切り裂き、体の奥へ入り込んだ。
あのガラスは心臓にでも刺さったのだろうか。
そうでなければ、心臓が止まりそうなほど痛むはずがない。
血の匂いが何度も込み上げ、腹部を中心に激痛が広がっていった。
それでも、強い生存本能のおかげで、頭だけは冴えていた。
ここで死ぬわけにはいかない……
ナースステーションの端に手をかけ、少しずつ体を起こした。
「お願い……転院させて……」
看護師はうんざりしたように目を上げた。
「医師の診断も紹介状もありません。転院の手続きはできません」
口の中に広がる鉄の味を、無理やりのみ込んだ。
「それなら、民間救急を手配して……ほかの病院へ運んでもらえませんか……」
「分かりました。確認してみますね」
看護師はそう言って、その場で民間救急へ連絡を入れた。
しばらくして、申し訳なさそうにこちらを見る。
「今からお願いすると、搬送費が5万ほどかかるそうです。料金は直接、業者さんに支払うことになりますが……大丈夫ですか?」
私は返事に詰まった。
財布の中には、ほとんどお金が残っていなかった。
美月が家に来てから、母は突然、私にも彼女のような質素な暮らしを覚えさせると言い出した。
美月には毎月20万円もの小遣いを渡しているのに、私は何か必要になるたび、いちいち母の許可を取らなければならなかった。
昨日も、市役所へ婚姻届を出しに行くための交通費を申請したが、母は一瞥して突き返した。
「歩いて行ける距離でしょう。交通費まで必要なの?美月は昔、学校へ通うために毎日何時間も歩いていたのに、一度も弱音を吐かなかったわ」
だから拓海が迎えに来ることになったのだ。
スマホも事故のときにどこかでなくしてしまった。
私が黙っていると、看護師は鼻で笑った。
「戻って待っていたらどうですか?高梨院長も、ほかの患者を全員診たら処置すると言っていたでしょう。院長は、何事も規則どおりに扱い、特別扱いは一切しない方ですから」
足がひどく震えた。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
そのとき、誰かの手がしっかりと私を支えた。
真帆だった。目を赤くし、焦りに満ちた顔をしていた。
「搬送費は私が出します!」
向かいの看護師が慌てて止めた。
「佐伯さん、今ここで余計なことをしたら、あなたまでリネン室へ回されるよ!」
真帆は私をさらに強く抱きかかえた。
「私は人を救うために看護師を目指したんです。苦しんでいる人を見て見ぬふりするためじゃありません!」
彼女に支えられ、一歩ずつ出口へ向かった。
そのとき、背後から母の声がした。
「千紘、どこへ行くの?美月はかなり出血したのよ。少し血を分けてあげなさい」
私は自分の耳を疑った。
「美月は、腕を5センチ切っただけでしょう……」
「美月はもともと貧血なの。一滴の血だって無駄にできないのよ!」
母の口調は、有無を言わせないものだった。
「医師の娘なら、もっと人を助ける自覚を持ちなさい」
私は大きく息をついた。自分のものとは思えないほど、声がかすれていた。
「お母さん、机に置いた検査結果……見た?」
第4話
1週間前のブライダルチェックで、原因不明の血液凝固障害が見つかっていた。
検査結果を手に母のもとを訪ねたが、話を切り出す前に、美月から電話がかかってきた。
「また低血糖を起こしたの?心配しないで。お母さんがすぐ行くから」
母はバッグをつかみ、振り返ることもなく私の横を通り過ぎた。
「机の引き出しに入れておいて。帰ったら見るから」
今、目の前で戸惑った表情を浮かべる母を見れば、あの検査結果はまだ引き出しに入ったままだと分かった。
息を切らしながら、弱々しい声を絞り出した。
「お母さん、私には血液凝固障害があるの……献血なんてできない……」
母は一瞬、動きを止めた。
私の服に手を触れ、すぐに冷笑した。
「服についた血は、もう乾きかけているじゃない。血が固まらないなんて、よくそんな嘘を思いついたわね」
「それは、ガラスが……」
「もういい!」
母は鋭い声で遮った。視線は氷のように冷たかった。
「美月はあなたの代わりにけがをしたのよ。それなのに、少し血を分けることさえ嫌がるなんて。本当に見損なったわ」
母は警備員を手招きした。
「この子を処置室へ連れていって!」
ぐったりと力を失った私は、そのまま処置台へ運ばれた。
私の顔色を見た拓海が、はっと眉を寄せた。
「先生、千紘の顔色、本当におかしくありませんか……」
「嘘を見抜かれて、怯えているだけよ!」
母は器具トレーを動かしながら、振り返りもせずに答えた。
「私は何年、医師をしていると思っているの。本当にけがをしているのか、後ろめたいだけなのか、一目で分かるわ」
美月は設備の整った特別患者用のベッドで上半身を起こし、各診療科の医長たちに囲まれていた。
汚れきった私とは違い、美月の服には汚れ一つなく、腕の傷もすでにきれいに処置されていた。
美月は青白い顔で私を見たあと、何かをこらえるようにうつむいた。
「お姉ちゃんが嫌なら、もういいの。お母さんには育ててもらった恩がある。今日、助手席でお姉ちゃんの代わりにけがをしたことだって、何とも思ってないよ。お姉ちゃんを助けられるなら、命を差し出したって構わない」
殊勝な言葉とは裏腹に、その声には深い悲しみがにじんでいた。
まるで、助手席に座る権利を得意げに奪ったのが彼女ではなかったかのようだった。
母は慌てて美月を抱きしめると、今度は呆れたような目で私を見た。
「あなたも、美月の半分くらい素直だったらよかったのにね」
拓海まで私の手を握った。
「千紘、怖がるな。少し採血するだけだ。終わったら、すぐに俺が傷の処置をする」
声こそ優しかったが、私の意思を聞くつもりはなかった。
拓海は強い力で私の腕を押さえつけた。
温かい血が、チューブを通して一滴ずつ体から抜かれていった。
私の心まで、体と一緒に冷えていった。
「これでいいわ」
母はまだ温もりの残る二つの採血バッグを持ち上げ、淡々と言った。
「ほら、何ともなかったでしょう。それに、ときどき血を抜くのは、あなたの体にも悪くないのよ」
「拓海、この子に砂糖を入れた温かい飲み物を作って」
飲み物を口元へ運ばれても、一口さえ飲めなかった。
内出血を起こしている人間に水分を無理に飲ませるなど、命取りになりかねない。
私が目を閉じたまま動かないと、母はまた腹を立てた。
「また意地を張っているの?千紘、少しは言うことを聞きなさい!拓海、飲ませて」
拓海は一瞬ためらったが、結局、私の口をこじ開けて飲み物を流し込んだ。
私は激しくむせた。
「千紘、わがままを言うな。血を抜いたばかりなんだから、甘い飲み物で少しでも体力を戻さないと」
拓海は私の手を軽く叩いた。
「美月に輸血を始めたら、先生と一緒にお前の傷を診るから」
私のベッドの周りは、また静かになった。
遠くなっていく意識の中で、美月のベッドの周りから楽しげな声が聞こえた。
「美月は本当に我慢強いわね。縫っている間、一度も泣かなかったもの。
拓海、美月は話題のお店のケーキを食べたがっていたでしょう。あとで買ってきてあげて」
「はい。任せてください。全種類買ってきます」
三人は仲睦まじく、まるで本当の家族のようだった。
私は一人、暗い隅のベッドに横たわっていた。
突然、大量の血を吐いた。
そして、今日、本当は婚姻届を出しに行くはずだったことを思い出した。
暗がりの中で、心電図モニターが一度だけ鳴った。
波形は、ゆっくりと一本の直線になった。