プロモーションを読み込み中...
この先は、あなたと歩かない
妊娠して、私は長年取り組んできた生命科学の研究から身を引いた。後を任せたのは、一から育てた教え子の水野莉奈(みずの りな)だった。 それ以来、莉奈は頻繁に家へ来るようになった。食卓では、夫と2人で研究データの議論に熱中し、私のことなど目に入らない。心血を注いできた私の研究なのに、今では口を挟む余地すらなかった。 その日の健診でも、2人は診察室の外で、周囲も気にせず子どもの名前を言い合っていた。 夫が振り返り、何でもないことのように言った。「莉奈は、この2つのほうが響きがいいって。どっちか好きなほうを選んで」 私は何も答えず、向き直って中絶の同意書に署名した。 そんなに気が合うのなら、もういい。あなたも、この子も、もういらない。
チャプター (1)
第1章
妊娠して、私は長年取り組んできた生命科学の研究から身を引いた。後を任せたのは、一から育てた教え子の水野莉奈(みずの りな)だった。
それ以来、莉奈は頻繁に家へ来るようになった。食卓では、夫と2人で研究データの議論に熱中し、私のことなど目に入らない。心血を注いできた私の研究なのに、今では口を挟む余地すらなかった。
その日の健診でも、2人は診察室の外で、周囲も気にせず子どもの名前を言い合っていた。
夫が振り返り、何でもないことのように言った。「莉奈は、この2つのほうが響きがいいって。どっちか好きなほうを選んで」
私は何も答えず、向き直って中絶の同意書に署名した。
そんなに気が合うのなら、もういい。あなたも、この子も、もういらない。
第1話
妊婦健診の日、私は夫の佐藤直人(さとう なおと)がいるすぐそばで、妊娠中絶の同意書に署名した。
直人は気づかなかった。教え子の莉奈と、子どもの名前を考えるのに忙しかったのだ。看護師が「佐藤紗月(さとう さつき)さんのご家族の方」と3度呼んでも、2人とも聞こえていなかった。
私が目の前まで行って、ようやく直人は顔を上げた。昼食は何にするかとでも聞くような調子で言う。
「莉奈が、この2つならどっちもいいって。好きなほうを選んで」
ふっと笑いがこぼれた。妊娠20週。お腹の子の名前を決めるのは、夫と私の教え子で、私の役目はどちらかを選ぶことだけ。よくできている。
この半年、胎教に流す音楽も、子ども部屋の壁の色も、粉ミルクのメーカーも、2人が私に代わって決めてくれたのだから。
私は直人のメモアプリを開き、並んだ2つの名前の下に1行書き足した。
【もう、選ばなくていい】
直人が眉をひそめた。何か言う前に、莉奈の携帯が鳴る。電話に出て十数秒ほど聞いただけで、彼女の顔色が変わった。
「佐藤先生、3番のサンプルでサイトカインの値がまた異常に上がっています。ベクターに問題があるのかもしれません」
直人は上着を取り落としそうな勢いで立ち上がった。
「研究室に戻ろう」
2歩ほど進んでから、私がまだここに座っていることを思い出したらしい。
「紗月、運転手に送らせるよ。研究が大事なところなんだ。あとの検査は1人で受けてきて」
少し膨らんだお腹に手を当て、私は尋ねた。
「今日が何の日か、覚えてる?」
直人は携帯に目を落とした。
「木曜日だろ」
私はそれ以上、何も言わなかった。今日は5回目の結婚記念日で、医師が子どもの4D超音波検査を予定していた日でもあった。
この検査のために、1か月前から直人のスケジュールに入れておいた。
昨夜も寝る前に、研究室で何が起きても、今日だけは私を1人にしないでと頼んだ。
直人はパソコンを抱え、メールを返しながら、顔も上げずに「わかった」と答えた。
確かに、わかってはいたのだろう。ただ、大事だとは思っていなかった。
隣で莉奈が、申し訳なさそうな顔をした。「師匠、すみません。今は佐藤先生がいないと研究が進まなくて。よかったら、私が残りましょうか?」
残ると言いながら、その手にはもう直人の上着があった。
莉奈の手首に光るシルバーの腕時計から、しばらく目を離せなかった。直人の30歳の誕生日に私が贈った、限定モデル。裏蓋には、私たちが初めて会った日付が刻まれている。
2か月前、直人はメンテナンスに出したと言っていた。預け先は、莉奈の手首だったわけだ。
私の視線を追った直人が、一瞬、気まずそうな顔をした。「クリーンルームでは携帯を見づらいから、時間を測るのに貸しただけだよ。変に考えないで」
まだ何も聞いていないのに、もう彼女をかばう言葉が出てくる。
莉奈は慌てて時計を外した。「師匠、誤解しないでください。佐藤先生が、どうしても着けていてほしいって……」
「どうしても」。かすかな声なのに、その言葉だけがやけにはっきりと耳に残った。
私は時計を受け取り、親指で文字盤を拭った。莉奈のハンドクリームの甘い香りが、まだ残っていた。
「誤解なんてしてないよ」
時計を直人に渡して、2人に笑いかけた。
「戻って。実験を待たせたら悪いから」
直人はほっとしたようだった。
「紗月、やっとわかってくれたんだね」
そのとき、お腹の中がかすかに動いた気がした。赤ちゃんが蹴ったのかもしれない。まるで、ママはいつまで我慢するの、と問いかけているみたいだった。
第2話
署名した同意書を看護師に渡すと、看護師は入口に目をやってから、私を見た。「ご家族の付き添いはないんですか?」
付き添いはいません、と答えた。
廊下の奥で、直人の足が一瞬止まった。聞こえたのかどうかはわからない。すぐに莉奈が彼を呼び、直人は振り返りもせずエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まると、私の目にかろうじて残っていた光も消えた。
子どもを失ったのは、その3日後だった。意地を張ったわけでも、誰かに仕返しをしたかったわけでもない。
医師からは、すでに2度説明を受けていた。胎児の検査で複数の異常が見つかり、このまま妊娠を続ければ私の身体にも危険が及ぶおそれがある。その先も、無事に育つと約束はできない、と。
それでも私は決められずにいた。どんな子が生まれても、2人で一緒に受け止めよう。直人がそう言ってくれたから。その言葉を信じていた。
仕事を辞めても、この先の人生が病院と子どもを中心に回っていくことになっても、家族が一緒なら、何とかやっていける。そう思っていた。
健診の日、ようやくわかった。本当に支えが必要なとき、直人はいない。1回の超音波検査にさえ最後まで付き添えない人に、いつ終わるかもわからない治療やリハビリを共に担えるはずがなかった。
処置の前、看護師がもう1度尋ねた。「佐藤さん、お気持ちに変わりはありませんか?」
天井の白い照明を見つめていた。目尻からこぼれた涙が髪にしみた。
「ありません」
麻酔が血管に入ってくると、妊娠7週目のことを思い出した。初めて子どもの心拍を確認した直人は、病院の階段でしゃがみ込み、10分も泣いていた。いつもは感情をほとんど表に出さない人だったのに。
私の手を握り、「紗月、家族をつくってくれてありがとう」と言った。
あのときは想像もできなかった。あの男は今、別の女と子どもの名前を相談しているなんて。私が1人で処置台に横たわっている間も、失敗した実験のデータを前に、その女に付き添っているなんて。
目を覚ましたとき、病室は静かだった。枕元には、すっかり冷めたほうじ茶が置かれていた。隣のベッドの人の付き添いが、私を気の毒に思い、買い物のついでに買ってくれたものだ。
携帯には17件のメッセージが届いていた。15件は研究チームのグループからで、直人からは2件。
最初の1件は、正午に送られていた。
【検査は終わった?】
その5時間後に、もう1件。
【夜は家で食べない。莉奈が胃の調子を崩したから、病院に連れていく】
少し平らになった下腹に触れ、ひと言だけ返した。
【わかった】
それきり、直人から何も聞かれることはなかった。結婚して5年。彼に「わかった」と答えるのは、私のいちばん得意なことだった。
起業したいと言われれば、両親が残してくれた家を売り、7600万円を全額会社につぎ込んだ。わかった、と。
生物実験を任せられる責任者が足りないから、海外の研究所の任期のない研究職を捨てて帰国してほしい。そう頼まれても、わかったと答えた。
他人を家に入れたくないから、家事は全部やってほしい。子どもが欲しいから、しばらく研究室を離れてほしい。そのたびに私は、わかったと言った。
愛し合うとは、お互いが望むことをかなえ合うことだと信じていた。ようやく気づいた。譲るのは、いつも私。直人はただ、受け取っていただけだった。
第3話
直人と知り合ったころ、私たちは雲川大学の生命科学研究科で博士課程に在籍していた。彼の専門はアルゴリズム、私は腫瘍免疫。ウェット実験のわからない彼と、プログラムの書けない私が、指導教員の取りまとめる共同研究でコンビを組むことになった。
当時の直人には、まともなパソコンを買う余裕もなかった。起動するだけで10分もかかる古い1台を毎日持ち歩き、データを処理していた。初めて会ったときも、研究棟の廊下にしゃがみ込んで修理の最中だった。ブルースクリーンになった画面と同じくらい、本人も青ざめていた。
予備のパソコンを貸すと、直人は丸3か月使った。返されたパソコンのバッグには、手書きの手紙といちごの飴が1つ入っていた。手紙にあったのは、たった1行。
【紗月。お金ができたら、世界でいちばん高いご飯をごちそうする】
やがて直人は、本当にお金を手にした。ただ、私とゆっくり食事をすることは、もう長いことなかった。
研究が最も難航した時期には、実験が17回続けて失敗した。私は昼間に細胞を培養し、夜は計画を練り直した。眠くなれば折り畳みベッドで2時間だけ眠る。直人も付き合ってくれて、3か月もの間、一緒にインスタントラーメンを食べた。
18回目の実験が成功した夜、研究室の入口に2人で座り、すっかり麺の伸びたカップラーメンを分け合っていた。直人が唐突に言った。「紗月、この先もずっと、僕と一緒にいてくれない?」
私は麺をくわえたまま、もごもごと答えた。「プロポーズにしては、ずいぶん安く済ませるんだね」
直人は、たった1枚しか持っていない銀行のキャッシュカードを私の手に押し込んだ。「今は安くても、この先、全部埋め合わせるから」
私は、その「この先」を信じた。海外の研究所を辞め、直人と帰国して、若葉バイオを立ち上げた。
莉奈は帰国して初めて指導した学生だった。家は裕福ではなく、修士1年目には白衣をもう1着買うことさえためらっていた。地道に頑張る姿を見て、若葉バイオの中核チームに入れた。奨学金の申請も、卒業時の優秀者表彰に向けた書類も、初めて投稿した論文も、私がつきっきりで直した。
妊娠10週目に、研究室で小規模な漏洩事故が起きた。私の曝露量はごくわずかだったが、医師からは念のため、危険性の高い環境をしばらく離れるように言われた。
離れたくはなかった。若葉バイオの研究は、動物実験の重要な段階に入っていた。たった1つのデータのずれで、5年間積み重ねてきたものが覆りかねなかった。
けれど、直人は社内会議で初めて声を荒らげた。
「研究はだめになっても、やり直せる。子どもを失ったら、どうするの?」
皆の前で私の入館カードを取り上げ、今すぐ帰って休むように言った。会議が終わると私を抱きしめ、離れるのは数か月だけだ、子どもが生まれたらいつでも戻ってくればいい、と言ってくれた。
誰に研究を引き継ぐのかと尋ねても、直人は迷わなかった。
「莉奈は紗月が育てたんだろう。紗月の考え方をいちばんよくわかってる」
確かに、莉奈は頭がよかった。私の仕事を引き継ぐのにも向いている。最後は私が折れた。
直人は私の髪を優しくなでた。
「赤ちゃんのためにも、ゆっくり休んで。あれこれ心配しなくていい。僕が見てるから」
それから私は、自分から研究の進み具合を聞かなくなった。
第4話
あの健診から数日、直人からは電話が1本もなかった。処置を受けた日から4日目、病院で診てもらって帰ってきたばかりの私のお腹は、まだしくしくと痛んでいた。
直人が目の前に保温ボトルを置いた。
「最近、食欲がないって聞いて、莉奈がわざわざ豚汁を作ってくれたんだ」
蓋を開けると、濃い肉の匂いが広がった。表面には脂が浮いている。
処置のあとで胃腸も弱っているから、しばらくは脂っこいものや重い食事を避けるように。医師にはそう言われていた。
莉奈の専門は生命科学で、臨床医学ではない。術後の食事について知らなくても仕方がない。
でも、直人は知っているべきだった。
退院後の注意事項はリビングのテーブルに置いてある。彼は1度も読んでいなかった。
私は蓋を閉じた。
「いらないわ」
隣に立つ莉奈が、傷ついたような声を出した。
「師匠、3時間もかけて作ったんです」
「それなら、自分で飲んで」
直人の顔が、たちまち険しくなった。
「紗月、人の好意を踏みにじらないと気が済まないの?」
私は顔を上げた。
「私がどうして飲めないか、わかる?」
「飲みたくないなら、それでいい。わざわざ理由をつけなくてもいいだろう」
「直人」私は名前を呼んだ。
「赤ちゃん、もういないの」
リビングが静まり返った。
莉奈の手からバッグが落ちる。
直人は言葉の意味がつかめないように、その場に立ったまま、長いこと私を見つめていた。
「何て言った?」
「3日前に、妊娠中絶の処置を受けた」
直人の顔から血の気が引いた。次の瞬間、駆け寄ってきて私の手首をつかむ。
「もう1度言って」
点滴の痕のあざを、強い力で押さえられた。痛みに眉を寄せたけれど、振りほどこうとはしなかった。
「赤ちゃんは、もういない」
「どうして?」
目を真っ赤にして、直人は声を裏返らせた。
「紗月、どうして僕に黙ってそんなことをしたんだ?」
彼を見ていると、その問いがおかしくてたまらなくなった。
「私が同意書に署名したとき、あなたはすぐ外にいたよ」
私をつかむ手がこわばった。
「あれは、健診の書類じゃなかったの?」
「聞いてくれた?」
直人は何度か唇を動かしたが、言葉は出てこなかった。
私は手を引き抜き、用意しておいた検査結果を渡した。
「赤ちゃんの発育に異常があって、このまま妊娠を続けるのは危険だって。早めに中断するように勧められたの」
受け取る手が震え、直人は紙をまともに持つこともできなかった。
「それでも、2人で決めるべきだっただろう」
「一緒に決める機会は、あったよ」
「いつ?」
「最初の再検査の夜。先生があなたと話したがっていると言ったら、莉奈からデータの報告があるって。
2度目に出血したときは、12回電話をかけた。でも、莉奈と業界のフォーラムに出ていて、電源を切ってた。
3度目が、あの健診の日。残ってくれないかと聞いたら、研究には自分が必要だって言ったよね」
話すたびに、直人の顔は白くなっていった。最後にはうつむき、私を見ることさえできなくなった。
莉奈がバッグを拾い、小さな声で言った。
「師匠、佐藤先生を責めないでください。会社のためだったんです」
私は莉奈に顔を向けた。
「夫と話してるの。あなたが説明することじゃない」
莉奈は唇をかみ、たちまち涙をこぼした。直人は、ほとんど反射のように彼女を見た。ほんのわずかな動きだった。それでも、私の中に残っていた最後のつながりを断ち切るには十分だった。
子どもを失ったばかりの私が、目の前に立って、検査結果を1枚ずつ並べている。それでも真っ先に気にかけるのは、莉奈が傷ついていないかということ。
私はかすかに笑った。
「直人、離婚しよう」