私を見捨てた男は、仮面をつけてもう一度愛を取り戻す

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私を見捨てた男は、仮面をつけてもう一度愛を取り戻す

GoodNovel 完結

葉山真白(はやま ましろ)と獅堂迅(しどう じん)は、羅生街の血だまりから命懸けで這い上がり、今では権力も富も分かち合う恋人となっていた。 裏社会の頂点を極めた頃、迅は真白のため、大勢の仲間が見守る前で裏稼業から足を洗い、彼女にまっとうで平穏な未来を与えると誓った。 そして半月前、蒼海湾の話題を独占するほど盛大なプロポーズパーティーが開かれた。どん底から始まり、頂点まで上り詰めた二人の愛は、今度こそ実を結ぶのだと誰もが信じていた。 真白自身も、そう信じていた。 親友の瀬戸麻衣(せと まい)から電話がかかってくるまでは。 「真白!大丈夫?怪我してない?」 真白は眉をひそめた。 「今、着いたところよ。どうかしたの?」 「あんたじゃないの……?」 麻衣はためらいがちに声を落とした。 「今夜、迅が大勢を引き連れて裏通りをめちゃくちゃにしたのよ。なんでも、一人の女のために、足を洗ったはずの裏社会に戻ったって噂。てっきりあんたの身に何かあって、それであいつが理性を失って暴れてるんだと思ってたのに」 スマホを握る真白の指先が冷たくなる。 一人の女のために?

チャプター (1)

第1章

葉山真白(はやま ましろ)と獅堂迅(しどう じん)は、羅生街の血だまりから命懸けで這い上がり、今では権力も富も分かち合う恋人となっていた。 裏社会の頂点を極めた頃、迅は真白のため、大勢の仲間が見守る前で裏稼業から足を洗い、彼女にまっとうで平穏な未来を与えると誓った。 そして半月前、蒼海湾の話題を独占するほど盛大なプロポーズパーティーが開かれた。どん底から始まり、頂点まで上り詰めた二人の愛は、今度こそ実を結ぶのだと誰もが信じていた。 真白自身も、そう信じていた。 親友の瀬戸麻衣(せと まい)から電話がかかってくるまでは。 「真白!大丈夫?怪我してない?」 真白は眉をひそめた。 「今、着いたところよ。どうかしたの?」 「あんたじゃないの……?」 麻衣はためらいがちに声を落とした。 「今夜、迅が大勢を引き連れて裏通りをめちゃくちゃにしたのよ。なんでも、一人の女のために、足を洗ったはずの裏社会に戻ったって噂。てっきりあんたの身に何かあって、それであいつが理性を失って暴れてるんだと思ってたのに」 スマホを握る真白の指先が冷たくなる。 一人の女のために? 第1話 「分かった」 真白の声は平静だった。だが、「見に行ってくる」と告げたその声だけが、わずかに頼りなく揺れていた。 裏通りには血の臭いが満ちていた。砕けたネオン管が路上に散らばり、その光が、折り重なるように倒れて呻く男たちを照らしている。 人垣の中央に、黒ずくめの迅が立っていた。 彼の意識は、正面で男にきつく押さえつけられている白いワンピース姿の女――水瀬佳純(みなせ かすみ)ただ一人に注がれていた。 真白の足が止まった。 迅が佳純をどれほど案じているのか。その目を見れば、嫌でも分かった。 「獅堂!」 鬼頭剛(きとう つよし)が、血走った目で怒鳴った。 「てめえが嫁にするのは葉山じゃなかったのか!それが今度は、この女のために俺のシマを潰しやがって! 何だ?葉山みたいな使い古しの女には、もう飽きたって――」 その侮辱が、迅の逆鱗に触れた。 乾いた銃声が響き、剛の膝から血が弾ける。絶叫とともに、巨体がその場へ崩れ落ちた。 真白は暗がりに立ったまま、迅が引き金を引く姿を黙って見つめていた。 激昂した剛はナイフを抜き、すぐさま佳純の首筋へ突きつけた。刃を押し当てられた皮膚から、赤い雫が滲む。 「助けてえなら、助けさせてやる。獅堂――俺の前に跪け!」 紛れもない侮辱だった。銃を握る迅の手の甲に、太い血管が浮き上がる。 だが、怯えた佳純の目から涙が一粒こぼれた瞬間、真白ははっきりと見た。 迅がほんの一瞬、膝を折ろうとしたのを。 真白は目を閉じた。 7年前の羅生街の入り口へ引き戻されたようだった。 敵方の男は真白を地面に踏みつけ、迅に向かって獰猛な笑みを浮かべていた。 ――女を返してほしけりゃ、俺の股の下をくぐれ! あのとき真白は、自分が死んだほうがいいとさえ思った。自分のために迅が辱められる姿だけは、どうしても見たくなかった。 十数年、二人は肩を並べて血の雨をくぐり抜けてきた。その迅が、これまで一度だって誰かに頭を下げたことがあっただろうか。 そんな男が今、別の女のために、ここまで尊厳を踏みにじられようとしている。 結局、真白は動いた。 片腕で剛を払いのけると、佳純の体を軽々と迅のほうへ押しやった。 迅は反射的に佳純を抱き留めた。真白に何か言おうと口を開いたものの、腕の中で佳純が気を失う。 彼が言い残したのは、たったひと言だった。 「ここは任せる」 真白はその場に立ち尽くし、迅の背中が街角の向こうへ消えるのを見届けた。それから車に乗り、あとを追った。 迅が向かったのは、見覚えのある葵区の古い雑居ビルだった。 真白の心が、ゆっくりと沈んでいく。 まだ二人が何者でもなく、最も貧しかった頃に暮らしていた場所だ。 夏は蒸し風呂のように暑く、冬は隙間風が容赦なく吹き込んだ。それでも二人は、そこで10年を過ごした。 成功を手にした迅が真っ先にしたのは、そのビルを買い取ることだった。 「ここには、お前が俺を愛してくれた痕跡が残ってる。誰にも触らせたくない」彼は、そう言っていた。 なのに今、その場所へ別の女を連れてきた。 スマホの画面が点灯した。部下から届いた報告は、短く、容赦がなかった。 【3か月前、雨の夜にボスの車が家出中の水瀬佳純さんと接触。水瀬さんは事故で記憶を失い、ボスが葵区の古い雑居ビルへ保護。以後、ボスは週に少なくとも3晩、同所に宿泊】 車内には、迅特有の匂いがまだ残っていた。 かつては、それだけで心から安らげた。自分が帰るべき場所の匂いだった。 今は息を吸うたび、その匂いが胸の奥深くに刃のように突き刺さる。 このところ迅は忙しいと口実を作って、真白が戻る日でさえ迎えに来なかった。 けれど、本当は―― 真白はタバコに火をつけた。 暗闇の中で明滅する赤い火は、遠い昔、二人であの雑居ビルの粗末な板張りのベッドに身を寄せ、一杯の屋台のチャーシュー麺を分け合ったとき、窓の外で途切れ途切れに光っていたネオン看板によく似ていた。 あの頃は、本当に貧しかった。互い以外、何ひとつ持っていなかった。 とりわけ忘れられないのは、ある冬の夜だ。壁の隙間から忍び込む冷気が刃のように肌を刺し、ありったけの服を体に被せても、歯の震えが止まらなかった。 迅は真白を腕の中にすっぽりと包み込み、自分の体温を分け与えた。彼女の頭に顎を乗せ、低い声で言った。 「真白、もう少しだけ耐えてくれ。俺たちが這い上がったら、二度とこんな苦労はさせない」 真白は、その言葉を信じた。 だから迅とともに羅生街から湊都の中心まで血路を切り開いた。名もない下っ端だった彼が、名を聞いただけで誰もが震え上がる裏社会の支配者になるまで、ずっとそばにいた。 迅を庇って背中に負った傷は、今でも雨の降る前は鈍く疼く。 燃え尽きかけたタバコが指先を焦がし、真白はようやく我に返った。 胸の底から、じわじわと苦い痛みがせり上がる。 二人で15年も歩んできた血まみれの道が、あとから現れた女の軽い涙一粒に負けたのだ。 やがて空が白み始めた。 真白の目に残っていた最後の揺らぎも、朝の光の中で静かに消えた。 エンジンをかけ、立ち去ろうとしたとき、階段口に迅が姿を見せた。 「真白」 迅は車の窓を軽く叩いた。 「ずっと待ってたのか?昨日は急なことだったし、佳純もひどく怯えていた。だから、ここで休ませるしかなかったんだ。 彼女は何も知らない普通の女の子だ。俺のせいで巻き込まれたんだから、放っておけない」 濃い色の窓ガラスが、真白の表情をすべて隠してくれた。 彼女はアクセルを踏み込んだ。 車は迅を残し、朝の街を一気に走り去った。 湊都のメディアは、すぐさま騒ぎを嗅ぎつけた。 【湊都激震!裏社会の王・獅堂、新たな恋人のために裏社会へ戻る!女王・葉山、傷心の決別か】 【事故で出会った記憶喪失の女子学生・水瀬佳純――二人の王が築いた15年の愛を揺るがす】 二人をめぐる憶測は日ごとに過熱したが、当事者である真白に弁明する気はなかった。 彼女は自ら財産分割協議書を作り、二人が築いた事業も資産も、すべて半分ずつに分けることにした。未練など微塵も感じさせない、いっそ潔いほどの決断だった。 真白が迅のオフィスへ向かうと、中から聞こえた話し声が、その足を止めた。 「迅。女子学生一人のためにあそこまでやったら、真白の立場がないだろ。いい加減、機嫌を取りに行ったらどうだ?あんな女、湊都中を探したって二人といないぞ」 声の主は、二人と長年苦楽をともにしてきた瀬名栄介(せな えいすけ)だった。 「分かってる。長いこと一緒に修羅場をくぐってきた。真白はもう、俺の命の一部だ」 迅の声には、かすかな疲れが滲んでいた。 真白の胸が、わずかに締めつけられる。 だが、続く言葉が彼女を氷の底へ突き落とした。 「でもな、栄介。真白への気持ちは、とっくに昔とは違ってる」 迅は一度、言葉を切った。 「あいつは腹の底が読めないし、やり方も容赦がない。俺でさえ、ぞっとすることがある。 佳純は違う。何にも染まっていない、まっさらな紙みたいな女だ。あいつを見てると、俺もまだ生きた人間なんだと思える。人を殺すことしかできない機械じゃないってな」 協議書を握る真白の手が、小さく震えた。 ふいに、ずっと昔の記憶が蘇る。 誰かが迅の前で、こう言ったことがあった。「葉山さんは手段を選ばなさすぎる。獅堂さんには釣り合わないんじゃないですか」 あのとき迅は、何と答えたのだったか。 迅は真白の腰を抱き、皆の前で不敵に笑った。「俺だって善人じゃない。真白が何も知らない甘ちゃんだったら、そもそも惚れてねえよ。俺は、真白のこの容赦なさが好きなんだ。 似た者同士で、ちょうどいいだろ」 あの声は今も耳に残っている。けれど、すべては変わってしまった。 オフィスでは、栄介がなおも説得していた。 「遊びたいだけなら、外に囲っておけよ。これまでの女と同じだ。どうせ1か月もしないうちに飽きる」 真白の爪が手のひらへ食い込んだ。 迅は首を振った。 「違う。昨日、佳純が泣いた瞬間、剛の連中を全員切り刻んで犬に食わせてやりたいと思った。 こんな感情は、真白に対して一度も抱いたことがない。真白は強すぎる。俺がいなくても何でもできる。でも、佳純には俺しかいない」 栄介は深いため息をついた。 「お前たちは、利害も勢力も深く結びつきすぎてる。どれだけの連中が隙を狙ってると思ってるんだ。関係を切れば、何が起きるか分からないぞ」 「今は、少し意地になってるだけだ」 迅の声には、揺るぎない確信があった。 「あいつは俺から離れられない」 「……ふっ」 真白は、ごく小さく笑った。 顔を上げ、目尻に浮かんだものを無理やり引っ込めると、扉を押し開けた。 迅はすぐに立ち上がり、真白の手を取ろうと近づいた。 「真白、もう気は済んだか?まだ腹が立ってるなら、あのシマを取り返しに行こう。前から欲しがってただろ?」 真白の視線は迅を通り越し、デスクに広げられた新聞へ落ちた。 芸能面の一面には、あの夜、迅が水瀬佳純を壊れ物のように抱きかかえ、車へ乗せる写真が載っていた。 その左手の薬指で、プラチナの指輪がひどく眩しく光っている。 真白の指にも、同じ指輪がある。 半月前、迅はそれを彼女にはめながら言った。 ――真白、俺の妻になるのは、お前だけだ。 何と滑稽な言葉だろう。 「迅。もともと財産は、半分ずつにするつもりだった」 真白は伸びてきた手を振りほどき、協議書を細かく引き裂いた。紙片を、無造作に宙へ放る。 「でも、私がそこまで悪辣な女だと言うのなら、その評判どおりになってあげる。 あなた名義のものは、何もかも私がもらうわ」 第2話 迅の顔から、笑みが消えた。 「真白。たかが部外者一人のことで、俺とここまで争うつもりか?」 真白は答えなかった。 指からゆっくりと婚約指輪を外すと、そのまま背を向けて立ち去った。 車に乗り込むと、見覚えのない番号から着信があった。 「葉山さんでいらっしゃいますか。帝都黒崎家の者です。長年行方が分からなくなっている当家のご子息について、何かご存じではないでしょうか」 ハンドルを握る真白の手に、力がこもった。 迅は決して口にはしなかったが、本当の両親を見つけたいと願っていることを、真白は知っていた。 だから彼女は、ずっと人知れず迅の家族を捜していたのだ。 そして数日前、ようやく事実を突き止めた。 迅は、20年前に仇敵の手で拉致された、帝都黒崎家の御曹司だった。 本当なら半月後、迅の誕生日パーティーで打ち明け、驚かせるつもりだった。 古い価値観を重んじる黒崎家に、迅が裏社会で生きてきた過去をどう受け入れさせるか。その方法まですでに考えてあった。 迅に、自分か家族かの二者択一を迫らずに済むように。 だが、もう必要ない。 「お教えしても構いません。ただし、条件があります」 真白は静かに告げた。 「半月後、彼を帝都へ連れ戻してください。 そして二度と、湊都へ戻さないで」 電話を切ると、真白はアクセルを強く踏み込み、自分のシマへ戻った。 仕事に没頭すれば、心の痛みを感じずに済むと思った。 最後の書類を閉じたときには、もう深夜だった。 広いオフィスには、自分の呼吸音しか聞こえない。無理に押し込めていた感情が、その静寂を突いて一気に溢れ出した。 真白は車のキーを掴み、黒砂海岸へ向かった。 そこは、地下レースの聖地だった。 限界を超える速度の中にいれば、自分が人間であることを忘れられる。血が通い、痛みを感じる生き物だということを、ほんのひととき忘れられる。 「これはこれは、葉山の女王様じゃねえか」 ねっとりとした声が割り込んだ。 「どうした?振られた憂さ晴らしにでも来たのか?」 剛の弟分、三野隆(みの たかし)だった。 迅が佳純のために剛のシマを潰したことで、両者の間には消しようのない遺恨が生まれている。 真白は、まぶたを上げることすら面倒そうに言った。 「よほど死に急ぐのね」 三野は遠くの断崖を指し、陰気な笑みを浮かべた。 「少し遊ぼうぜ。たった一周だ。負けたほうが、自分で車を崖から落とす。どうだ?」 命を賭けた勝負だった。 辺りは一瞬で静まり返り、すべての視線が真白へ集まった。 「いいわ」 その声は穏やかで、わずかな倦怠さえ帯びていた。 次の瞬間、2台の車が弦を離れた矢のように飛び出した。 最初のカーブへ入ったところで、真白はブレーキに細工されていることに気づいた。 風に乗って三野の嘲笑が聞こえた気がした。それでも彼女は意に介さず、アクセルを限界まで踏み込んだ。 賭けてみたかった。死神に、この命を奪う度胸があるのかどうかを。 真白の車は先にゴールラインを駆け抜け、そのまま制御を失って断崖へ突進した。 その瞬間、横から鋭い光が割り込んだ。 轟音が炸裂した。 銀灰色のスポーツカーが真白の車へ体当たりし、崖まで10メートルもない場所で、無理やりその進路を止めた。 エアバッグが開き、衝撃に頭を揺さぶられ、視界がぐらりと歪んだ。 どうにか顔を横へ向ける。 ほとんど原形を失ったスポーツカーから、迅がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迅はドアを開け、手を差し出した。 「真白、降りろ」 声はひどく掠れていた。 額から流れた血が、パジャマの襟元を赤く染め上げている。 傷だらけになったはずの真白の心は、思わず締め付けられた。 彼女は迅の手に、自分の手を重ねた。 真白が無事だと確かめるなり、迅は振り返り、三野の顔面を拳で殴りつけた。 「てめえ、死にたいのか!」 「獅堂、頭がおかしいんじゃねえのか!」 三野は血の混じった唾を吐き捨てた。 「昨日は水瀬の女のために俺の兄貴分を殺しかけて、今日は葉山相手に一途な男のふりかよ!」 その言葉で、真白は一気に現実へ引き戻された。 これ以上、こんな茶番は見ていたくない。彼女は背を向け、歩き出した。 胸が痛むことと、許すことは別だ。 「真白!」 迅は慌てて追いつき、真白の手首を掴んだ。 「もう怒るな。気が済まないなら、俺を何発か殴ってもいい」 怒っているわけではない――そう言いかけたとき、怯えを含んだ女の声がした。 「迅……」 二人が振り向く。 白いパジャマ姿の佳純が、少し離れた場所に立っていた。髪は乱れ、片方の靴はどこかで脱げたらしく、足元は裸足だった。 「ごめんなさい。お二人の邪魔をするつもりはなかったんです……」 佳純は唇を噛み、目を赤くした。 「あなたが電話を受けて、慌てて出ていったから。何かあったんじゃないかと心配で、あとを追ってきました」 そう言うなり、佳純はその場から駆け出そうとした。 迅は眉を寄せ、数歩で追いついて彼女を止める。 「走るな。足元は割れたガラスだらけだ」 真白は、二人を静かに見つめた。 黒と白。まるでカップルのようなペアのパジャマが、夜闇の中で、痛々しいほど目に刺さった。 自分は、ずいぶん大切にされているらしい。こんな美人をそばに置きながらも、忘れずに助けに来てくれたのだから。 第3話 真白は踵を返した。 これ以上、目に刺さる光景を見たくなかった。 あと一秒でもここにいれば、どうにか保っている冷静さが粉々に砕けてしまいそうだった。 迅は傷ついた体を無理に動かし、真白へ手を伸ばした。せめて服の裾だけでも掴もうとする。 「まし……」 名前を最後まで呼ぶこともできず、迅は完全に意識を失った。 「迅!」 背後から、泣き出しそうな佳純の叫びが聞こえた。 「どうしよう。こんなに血が出てる……私じゃ支えられない……」 真白は目を閉じた。爪が手のひらへ深く食い込む。 とうとう足を止めた彼女は、振り返らないままスマホを取り出した。 「黒砂海岸の崖際です。救急車を一台お願いします。 今すぐに」 病院には、鼻を突く消毒薬の臭いが満ちていた。 治療費を払い終えた真白は、ガラス越しに病室を見ていた。 佳純が濡らしたタオルで、迅の顔に乾いてこびりついた血を少しずつ拭っている。 やがて目を覚ました迅は、真っ先に佳純の涙へ手を伸ばした。 その指で涙を拭い、ふと扉の外に立つ真白に気づいた瞬間、動きが止まった。 真白は病室へ入った。 佳純を見ようともせず、迅の容体を尋ねようともしない。ただ支払いの明細を、無造作にベッド脇の台へ置いた。 「全部、払っておいた」 真白が立ち去ろうとすると、迅は苦痛に顔を歪めながら起き上がった。 「真白!どこへ行くんだ。話を聞いてくれ……」 「動かないでください!傷口がまた開きます!」 医師の鋭い声が飛んだ。 「必要ないわ。迅には水瀬さんがついているもの。ゆっくり治して」 真白は伸びてきた手を身をかわして避けた。 誰もいない冷たい廊下に、彼女のヒールの音だけが虚ろに響き、やがて遠ざかっていった。 夜風には冷たさが混じり、ほどけた真白の髪を揺らした。 気がつくと彼女は、羅生街の古い路地の入り口に立っていた。 ラーメン屋の女将が真白を見つけ、店から明るく顔を出した。 「葉山さん、いらっしゃい!今日は一人なの?獅堂さんは?いつもどおり、チャーシュー麺を二つでいいかい?」 真白は、そこでようやく思い出した。 今日は10月15日だ。 16年前の今日、彼女はこの路地で迅と出会った。 それから毎年この日になると、二人でここへ来て一杯のチャーシュー麺を食べ、長い通りを歩いた。 その時間だけは、どこにでもいる恋人同士のように。 真白の24年の人生、その3分の2を迅が占めている。 それなのに、よりによってこの日にすべてへ終止符を打つことになるとは思わなかった。 喉へ込み上げたものを押し戻し、真白は女将へ笑ってみせた。 「一つだけでいいわ」 チャーシュー麺が運ばれ、湯気もまだ消えないうちに、店の入り口へ人影が現れた。 佳純だった。 「葉山さんもいらしたんですね」 佳純の手には、割烹「松月」の持ち帰り袋が提げられていた。上品で高価そうな包みは、この古びたラーメン屋からひどく浮いて見えた。 「迅が、病院の食事はおいしくないって言うので、海鮮雑炊を買ってきたんです」 真白は顔を上げず、箸で静かにスープをかき混ぜた。 佳純は数歩近づき、真白のどんぶりへ目を落とした。 「迅、私をこのお店に連れてきてくれたことがあるんです。迅はおいしいって言ってたけど、私が不衛生だって言ってから、一度も食べなくなりました。 同じものばかり食べていると、別の味が欲しくなるとも言っていました」 真白はようやく顔を上げた。唇には冷ややかな笑みが浮かんでいる。 「『松月』の海鮮雑炊は確かにおいしいですね。でも、迅は胃が弱いんです。医師からも、魚介は控えるように言われています。 水瀬さんが付き添うのなら、そういう細かなことにも気を配ったほうがいいですよ」 佳純の笑みが、わずかに強張った。 真白は箸を置いた。 「このチャーシュー麺と同じです。十数年も食べ続けてきた味は、目新しい刺激だけで代わりが務まるものではありません。 海鮮雑炊は温かいうちに召し上がってください。もう戻ったほうがいいですよ。ただ、途中で何か胃に優しいものも買うことをお勧めします。だって――」 真白は微笑んだ。 「本当に迅の口に合うものでなければ、意味がありませんから」 佳純は何も言い返せず、目を赤くした。持ち帰り袋を強く握りしめると、腹を立てたように店を飛び出していった。 真白は目を伏せた。 目の前のチャーシュー麺は、もうすっかり冷めている。食欲は欠片も残っていなかった。 代金を器の下へ挟み、席を立つ。 外では、夜がさらに深くなっていた。 ここから、真白が暮らす白金邸までは数区画しか離れていない。 無機質な光を反射する摩天楼のガラス窓と、塗装の剥げた古い雑居ビルが向かい合うこの一帯は、湊都の新旧が入り混じる縮図だった。 かつて真白が白金邸をどうしても手に入れようとしたのは、大きな窓の前に立てば、二人がのし上がる出発点となった街を遠くに望めたからだ。 それは錨のように、彼女を来た道へつなぎ留めてくれた。 どれほど高い場所へ上っても、始まりを忘れないために。 路地は静まり返り、石畳を打つハイヒールの音だけが響いていた。 道沿いの古い木から、黄ばんだ枯れ葉が一枚舞い落ちた。真白の肩をかすめ、音もなく地面へ落ちる。 何年も前にも、こんな夜があった。 真白と迅は一つのシマを手に入れたばかりで、全身傷だらけになりながら、興奮に目を輝かせていた。 この木の下で、迅は真白を背負い、一歩ずつ前へ歩いた。 ――迅、いつか大きな窓のある家に住みたい。 迅は息を切らしていた。それでも笑い声は、どこまでも明るかった。 ――分かった。買ってやるよ。湊都を全部見渡せる家をな! 場所は同じでも、人の心だけが変わってしまった。 遠い記憶に心を奪われていたとき、脇へ分かれる暗い路地から、女の怯えた呻き声と男たちの下卑たからかい声が聞こえた。 「助けて……放して……」 第4話 真白は眉を寄せた。聞かなかったふりなどできない。身を翻し、すぐさま暗い路地へ飛び込んだ。 鈍い打撃音と悲鳴が続けざまに響く。酔った男たちは、あっという間に地面へ叩き伏せられ、苦しげな呻き声を漏らした。 真白は自分の上着を脱ぎ、破れた服から肌が露わになっている女へ掛けた。 「もう大丈夫よ」 女が顔を上げる。 真白は言葉を失った。 佳純だった。 胸に湧いた複雑な感情を押し殺し、真白は冷静に救急車を呼んだ。佳純を病院へ送り届け、警察へ通報し、求められた事情聴取にも応じた。 すべてを終えた頃には、もう夜明け前だった。 少し迷った末、真白は佳純の様子を確認するため、病院へ行くことにした。 ナースステーションで病室を尋ねようとした瞬間、大きな手が真白の手首を乱暴に掴んだ。 骨ごと握り潰されそうなほどの力だった。 痛みに顔をしかめて振り向くと、迅の怒りに満ちた目とぶつかった。 「よく顔を出せたな」 迅の声は、煮え立つ怒りを無理に押さえ込んでいた。 「佳純になんて真似をさせたんだ!あんなことをされて、あいつにこれからどうやって生きろっていうんだ! 何があっても、俺の妻になるのはお前だけだと言っただろ。それなのに、どうしてあいつを徹底的に潰そうとする?」 そこまで言うと、迅は急に力を失ったように俯いた。 「真白。昔のお前は、こんな女じゃなかった…… あの頃のお前は佳純と同じで、俺を見る目に何ひとつ濁りがなかった」 真白は迅を見つめ、不意に笑った。 彼も覚えていたのだ。 かつての真白が、ただの純粋な少女だったことを。 選べるのなら、いったい誰が好き好んで手を血で汚すだろうか。 本当は聞いてやりたかった。 自分が初めてナイフを握った理由を、迅はまだ覚えているのか、と。 人を呑み込んでは骨までしゃぶるような、あの違法な闇カジノから、迅を生きたまま連れ出すためだった。 あのとき真白は14歳だった。 知らせを受けた時点で、迅はすでに丸一日と一晩、監禁されていた。 店の主人は、金を持ってこなければ迅の腕を一本潰すと言い放った。 真白の手元にあったのは、出かける前に迅が渡した、千円ほどの紙幣だけだった。 何度も握りしめたせいで、ひどく皺になっていた。 ――明後日はお前の誕生日だろ。きれいなスカートでも買え。俺が戻ったら、うまいものを食べに連れていってやる。 彼女に、ほかに何ができたというのだろう。ただ、卓上のナイフを手に取り、闇カジノへ向かうしかなかった。 それから16年、生死をともにしてきた。 その果てに返ってきたのが、「どうして昔のように純粋で優しくいられないんだ」という言葉だった。 事実を確かめもせず、すべての罪を真白に被せ、弁明のひと言さえ聞こうとしない。 生臭く、わずかに甘い血の味が、突然喉の奥へ込み上げた。 「迅」 真白はその血を無理やり飲み込み、顎を上げた。 迅の目を正面から見据え、一語ずつ突き刺すように告げる。 「首の上に載っているものを使って、よく考えなさい。 もし本当に私がやらせたのなら――水瀬佳純が生きたまま、あなたに泣きつけたと思う?」 …… あの日、病院で決裂してから、迅と真白はそれぞれのシマに分かれて陣取り、二度と顔を合わせなかった。 それでも、湊都の噂は一向に収まらない。 【獅堂の新恋人、深夜に襲撃される――黒幕は葉山か】 その記事が、残されていた最後の平穏さえ完全に打ち砕いた。 二人が再び同じ場所に現れたのは、湊都の裏社会で古参として知られる神谷邦彦(かみや くにひこ)の70歳を祝う宴だった。 真白は会場の隅に置かれたソファに座り、隣の麻衣ととりとめのない話を交わしていた。 そこへ、迅と佳純が寄り添って姿を現した。 周囲から、ひそひそと話す声が流れてくる。 「見たか?あれが新しい女だ。数日前にはクルーザーを贈ったらしい」 「獅堂もずいぶん入れ込んでるな。首のピンクダイヤ、20億円は下らないそうだ。それを惜しげもなく渡したんだとさ。葉山の女王様も、とうとう過去の女になったか」 真白の心は、もうほとんど動かなかった。 だが麻衣は袖をまくり上げ、今にも二人へ突進しそうになった。 「私が、あの最低な二人を引き裂いてやる!」 真白は麻衣の手首をそっと押さえた。 「あんな連中を相手にして、手を汚さないで」 次の瞬間、佳純の目が真白を捉えた。 佳純は反射的に迅の胸へ身を寄せ、怯えきった表情を浮かべた。 迅は低い声で佳純を宥めながら、複雑な目で真白を見た。 その光景は、噂をしたがる者たちに格好の餌を与えた。 すぐに、別の囁きが始まる。 「水瀬さんの怯え方を見ろよ。やっぱり噂は本当だったんだ」 「男の心が離れるのは仕方ないだろ。だからって裏であんな手を使うなんて、みっともないにもほどがある」 「嫉妬に狂った女と何が違うんだ?昔は大した人物だと思ってたのにな」 彼らの言葉は、真白を、男の心変わりに取り乱して暴走した笑い者へと歪めていく。 彼女が自分の力で手にしてきたものも、成し遂げてきたことも、すべてなかったことにするように。 これ以上そこにいたくなかった。 真白は席を立って化粧室へ向かったが、洗面台の前で佳純に行く手を塞がれた。 「葉山さん。迅と喧嘩をしたからって、あまり仲をこじらせないでください。 だって、私のお腹の子が生まれたら、葉山さんのことも、もう一人のお母さんみたいに慕うことになるんですから」 佳純は、いかにも無邪気そうに微笑んだ。 子ども? 洗面台の縁を掴む真白の指に、瞬時に力がこもった。関節が白く浮き上がる。 7年前、真白を狙った拉致事件で、犯人たちは彼女の体を徹底的に傷つけた。 その傷が原因で、真白は二度と妊娠できない体になった。 あのとき迅は、衰弱しきった真白を抱き締め、目を真っ赤にして言った。 ――俺は子どもなんか好きじゃない。うるさいだけだ。 ――俺に必要なのはお前だけだ。真白、お前が元気で、ずっと俺のそばにいてくれれば、それでいい。 今も耳に残るその言葉が、鋭い錐のように胸を抉った。 佳純は無邪気な声で続けた。 「そういえば、数日前に葉山さんが人を寄越してくださったこと、お礼を言わないといけませんね。そのおかげで病院へ行って、妊娠していることが分かったんです。 迅も、とても喜んでくれました。もう名前まで考えてくれたんですよ。 安(あん)っていうんです」 その名を聞いた瞬間、真白の顔から血の気が引いた。 第5話 「真白、もし子どもができたら、安って呼ばないか。お前も子どもも、ずっと無事でいられるように」 あの言葉を口にしたときの迅の、弾むような声が、真白の脳裏に鮮明によみがえった。 それなのに今、彼はその名前を別の女に与えた。 真白は、立っていられなくなるほどの胸が絞られるような痛みをぐっと押し殺した。 突然現れた子どもの存在に、結局、この子どもの存在に心を乱されてしまったのだ。 これ以上ここにいたくない。息が詰まるこの場所から、今すぐ離れたかった。 そのとき、化粧室の入り口で佳純が小さく叫び、床に倒れ込んだ。 迅はほとんど同時に駆け込み、声を上げた。 「佳純、どうした!」 佳純は涙を浮かべて訴えた。 「迅、私はただ、葉山さんと仲直りしてほしくて……どうしてそこまで私を目の敵にするのか分かりません……」 迅は疲れた目を真白へ向けた。 「真白、俺たちの問題で、関係ない人間に八つ当たりする必要があるのか?佳純の体が弱いことは知ってるだろ」 真白は、佳純を腕の中に庇う迅を見つめた。弁解しようとしていた自分が、ひどく滑稽に思えた。 背後から、興奮した声が飛んだ。 「待って!」 人々が声のほうを振り向くと、気品のある中年の夫婦が人垣から歩み出てきた。 「あれは水瀬教授だ。去年、国際的な賞の候補になった人だよ」 「水瀬夫人は国の研究機関を率いる研究者で、量子コンピュータの開発を指揮しているらしい」 周囲から、押し殺したどよめきが上がった。 その場にいた多くの者が、水瀬研究所との共同研究を得るためなら何でもすると考えていた。だが、水瀬夫妻はこのような宴に姿を見せることなどなかったのだ。 佳純は2人を見て、明らかに動揺した。 「お父さん、お母さん?どうしてここへ……」 人々の佳純に向けられる視線は、にわかに熱を帯びた。単なる愛人だと思っていた女が、水瀬夫妻の娘だったのだ。 風向きが変わるのに、時間はかからなかった。 さっきまで様子を見ていた者たちが、いっせいに真白を責め始める。 「葉山さん、それはいくら何でもひどい。獅堂さんに愛されなくなったからって、若い子に当たるなんて」 「葉山真白はやり方が強引すぎるって、前から言っていたじゃないか」 佳純は背筋を伸ばし、水瀬夫妻のほうへ向き直った。 だが、夫妻の視線は佳純ではなく、真白に向けられていた。 水瀬恵(みなせ めぐみ)の目が瞬く間に赤くなった。彼女はおそるおそる口を開く。 「ね……さっき、背中の肩甲骨のあたりに、白い葉の形をしたあざがあるのを見ました。 今年、24歳ではありませんか?」 その言葉に、会場全体が凍りついた。 真白はその場に立ちすくみ、佳純の顔からは血の気が引いた。 「お父さん、お母さん、何を言っているの?この前、家出したのは私が悪かった。でも、そんな嘘までついて私を刺激しなくてもいいでしょう。 私こそがあなたたちの娘よ!」 場はたちまち混乱した。 疑う声、ひそひそ話、泣き叫ぶ声が入り乱れる。 結局、この騒ぎは、追い詰められた佳純が都合よく気を失って倒れたことで、うやむやに幕を下ろした。 突然明らかになった身の上に、真白の心はそれほど揺れなかった。 24年間、ひとりで戦ってきた。今さら誰かを父や母と呼びたいとも思わない。 その日、真白はひとつの古い品を思い出した。 ――迷子になったとき首に下げていた指輪だ。 どれだけ探しても見つからず、もしかするとあの葵区の古い雑居ビルに置き忘れたのではないかと思い当たった。 車を走らせ、見慣れた扉の前に立つ。だが、そこはすっかり様変わりしていた。 古びた木の扉は新しい防犯ドアに替わり、かつて真白の指紋を登録していたスマートロックまで更新され、彼女を完全に締め出していた。 真白はしばらく黙って立ち、迅に短いメッセージを送った。 【雑居ビルの前にいる。取りたい物があるから、鍵を開けて】 迅からの返信はすぐに届いた。 【今から行く】 しかし、迅より先に姿を現したのは佳純だった。警戒に満ちた目を真白へ向けている。 「私の家族を奪っただけじゃ足りないの?今度は何を奪いに来たの?ここは私と迅の家よ!」 真白は、佳純にまともな視線さえ向けなかった。 「水瀬さん、2つ勘違いをしています。 1つ目。あなたが誰の家族かを決めるのはDNAであって、私ではありません。詳しく言えば、あなたが私の場所を占領していた。これは本来の持ち主に戻るだけのことです。 2つ目。この家の権利証の名義人は私です。彼は買い取ったあと、これを私に贈った。法的にも、ここは私の所有物です」 第6話 迅が駆けつけると、佳純が目を赤くして扉のそばに寄りかかり、真白はただ静かに立っていた。 迅は歩みを速め、困ったように声をかけた。 「真白、どうした?」 真白が答えるより先に、佳純が涙声で割り込んだ。 「迅、葉山さんがこの家は自分のものだから出ていけって。でも、私はもうここを自分の家だと思っているのに……」 真白が表情ひとつ変えないのを見て、迅は眉間を揉んだ。 「とにかく中へ入ろう。何を探している?」 彼は体をずらして道をあけ、真白へ視線を落とした。 真白が中へ踏み込み、居間に足を入れた瞬間、床に縫い止められたように足が止まった。 視界に映るものは、すべて見知らぬものだった。 二人が幼かった頃から大人になるまでの身長を刻んだ壁は、真っ白に塗りつぶされていた。 冗談で「ひどい見た目だ」と言いながら、捨てることのできなかった食卓は、高価な大理石のテーブルに替わっていた。 窓辺で一緒に植え、「俺たちもこのサボテンみたいに強く生きよう」と約束した鉢は、跡形もなく消えていた。 真白と迅の痕跡は、きれいさっぱり消し去られていたのだ。 ここはもう、二人の貧しかった日々の記憶を繋ぎ止める錨ではない。佳純のために丁寧に作り替えられた、新しい家だった。 じわじわと息が詰まるような痛みが胸に広がった。 迅は喉を動かし、言い訳するように言った。 「古い家だったから、あちこち壊れていた。ついでに改装しただけだ」 真白は我に返り、表情を引き締め、動揺を押し隠した。 「あの鉄の箱はどこ?」 それは、二人が何も持たずに歩き始めた頃の貯金箱だった。錆びついた箱の中には、一枚ずつ貯めた硬貨と、真白が迷子になったとき首に下げていた指輪が入っているはずだ。 迅の目が揺れた。だが、佳純が先に口を開いた。 「あの汚い鉄の箱?私が住み始めた初日に捨てたわ。どこのごみ捨て場から拾ってきたのかも分からないし、バイ菌がついていたら嫌だもの」 「もう一度言ってみなさい」 真白の声は大きくなかった。それでも氷のように冷たく、佳純を後ずさりさせた。 迅は反射的に佳純を庇った。 「佳純はまだ若くて、家族に甘やかされて育っただけだ。気にするな。あの指輪なら、しまった覚えがある」 以前なら、迅は真白に関わることなら何一つ忘れなかった。今では、どこかにしまったかもしれないという程度の認識でしかない。 迅は寝室へ向かった。 居間に二人きりになると、佳純の視線が真白の手首へ落ちた。そこには木製の腕輪が巻かれている。 「どうしてあなたが持っているの?これは私の母がご利益のあるお寺で求めたものよ。どうしてあなたの手にあるの!」 真白は眉をひそめた。数日前、心が落ち着かない彼女を気遣い、麻衣が寺で授かってきてくれたお守りの腕輪だった。 真白が説明する気にもなれずにいると、佳純は狂ったように飛びかかり、腕輪を奪おうとした。 「返して!お母さんのものよ!この泥棒!」 真白の胸にたまったうんざりした感情が限界に達し、佳純の手を振りほどいた。 ちょうどそのとき、迅がビロード張りの小箱を持って寝室から戻ってきた。 佳純は絨毯の上に尻もちをついた。 「迅、私はただ、母の腕輪を取り戻したかっただけなの。それだけが、私に残された思い出だから……」 迅は佳純を抱き起こし、顔を上げて真白を見た。 「真白、水瀬夫妻はもうお前の本当の両親なんだ。佳純には何も残っていない。腕輪ひとつくらい、譲ってやれないか?」 彼は手にしたビロードの箱をわずかに持ち上げた。 「そうしないなら、この指輪は……」 言外の脅しの意味は、あまりにも明白だった。 真白は冷えた目で迅を見た。 「迅、頭がおかしいなら病院へ行って。腕輪は私のものよ。どうして彼女に渡す必要があるの。 涙を見せれば何でも思い通りになると思ってるから?」 迅はその皮肉に刺され、人情のない女だと言わんばかりに眉をひそめた。 「お前は今、何もかも持っているだろ。どうして、これくらいの物まで奪い合う?」 何もかも持っている…… 迅は、真白が何を差し出し、何を失ったかには一言も触れず、彼女は満たされていると思い込んでいた。 佳純は、真白の代わりに20年以上の豊かさを享受してきた。水瀬夫妻が本当の娘である真白を見つけた途端、佳純は何も持たない哀れな女になったというのか。 吐き出せない苦みを抱えたまま、真白は声が震えないように耐えた。 「それを渡して。私はすぐに出ていく」 迅が箱を引き戻そうとした瞬間、感情的になった佳純が箱を奪い、窓の外へ放り投げようと腕を振り上げた。 「渡すものですか!」 真白はそれより早く佳純の手首をつかみ、箱を奪い取った。 「あっ!」 佳純が叫んでも、真白は振り返らず、迷いなく雑居ビルを出た。 雨が細かく降り始めた。 真白は気づいていないかのように、感覚を失ったような虚ろな足取りで歩いた。 通りの向こうでは、若い恋人たちが笑いながら走っていた。男が上着を二人の頭にかぶせ、女が彼に寄り添っている。弾む笑い声が響く。 何年も前、迅がこの通りで真白を雨から庇ったのと同じだった。 足が、いつの間にか見覚えのある角で止まった。 昔ここには甘味を売る屋台があった。喧嘩を終えるたび、迅は真白を背負ってそこへ行き、一番安い甘味を一杯買った。迅がひと口、真白がひと口。舌に残る苦さを、甘い味がしばらく覆ってくれた。 この瞬間、張り詰めていた強がりが記憶と現実に挟まれ、砕け散った。 真白はもう耐えられなかった。ゆっくりしゃがみ込み、冷たい壁際で体を丸め、顔を膝に深く埋めた。 肩が激しく震え、長く押し殺してきた嗚咽が、人気のない通りに響き渡った。 15年、肩を並べて歩いた時間は、結局この雨の夜に洗い流され、荒涼とした跡だけを残した。 第7話 真白は、自分がどうやって白金邸へ戻ったのか覚えていなかった。 浴室まで一歩ずつ進み、ろくに体も洗わず、ダブルベッドへ倒れ込んだ。 意識は眠りと覚醒の間を漂い、体は熱くなったり冷えたりした。熱があると分かっていても、起き上がって水をひと口飲む力さえ残っていない。 それでいい。眠ってしまえば、心はもうこんなに痛まない。 どれほど時間が過ぎたのか、激しい呼び鈴の音が響いた。 真白はもがくように目を開けた。窓の外はすでに明るく、光が目に刺さる。寝間着の襟元をかき合わせ、よろめきながら玄関へ向かった。 覗き穴の向こうに立っていたのは、水瀬夫妻だった。 「真白……」 恵の目が瞬時に赤くなり、水瀬家の当主、誠一郎(せいいちろう)は書類の束を抱えて、おずおずと言った。 「ほかの意図はありません。ただ、あなたの顔を見に来たかった。これは私たち名義の資産の一部を譲渡する契約書です。 今すぐ私たちを親と認められなくてもいい。せめて、償う機会を与えてほしい」 真白が断ろうとしたとき、激しいめまいに襲われ、体が揺れた。反射的にドア枠へ手をつく。 「真白!」 恵はすぐに異変に気づき、額へ手を当てた。 「こんなに熱い。ひどい熱があるのね」 それまでの遠慮とよそよそしさは、親としての心配に取って代わった。 二人は慌てて真白を寝室へ運び、恵が叫ぶ。 「あなた、早く白湯を持ってきて!薬箱を探して。熱冷ましがあるかもしれないわ」 ぼやけた視界に、恵の焦りと気遣いに満ちた顔が映った。誠一郎も不器用ながら、必死に真白を世話している。 真白は目を閉じた。胸の奥で固く閉ざしていた場所が、見知らぬ温もりに押し開けられ、わずかな隙間をつくったように感じた。 本当に、自分を気にかけているのだろうか。 その考えが浮かび、かすかな切なさを伴った。 身の上を知ってから、水瀬夫妻はさまざまな経路で贈り物を届け、会いたいと人づてに伝えてきた。真白はずっと、冷たく拒み続けていた。 親がいるというのは、想像していたほど悪いものではないのかもしれない。 再び意識が闇へ沈む前、真白は誰かが額の汗を拭っているのを感じた。恵のすすり泣きと、誠一郎の落ち着いた慰めの声も聞こえた。 その見知らぬ、遠い感覚に、真白は眠りの中でかすかに身を縮めた。 目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。真白は体を起こし、周囲を見回したが、誰もいない。 胸の底に生まれたかすかな温もりは、たちまち冷えた。やはり、熱に浮かされた錯覚だったのだろうか。 次の瞬間、恵がおかゆを運んで入ってきた。 「目が覚めたのね。早く食べて。さっき出来上がったところよ。それから、あなたの電話がずっと鳴っていたの。急ぎの用事かもしれないから、確認してみて」 ぽっかりと空いていた心が何かに満たされていくようで、真白は微笑み、スマホを受け取った。 画面に並んでいた不在着信は、すべて最も信頼する部下からだった。真白はすぐに折り返した。 「真白さん、やっと出てくれました!」 部下の声は切迫していた。 「ボスが人を率いて、俺たちの最重要の縄張りを三つも潰しました。死傷者も多数出ています。麻衣さんも連れ去られています!」 真白の瞳が、一瞬で一瞬で凍りついた。 「場所は?」 廃棄された埠頭の倉庫には、潮と血の混じった海風が吹き込んでいた。 真白は一人でそこへ来た。両手を後ろ手に縛られ、口元を血で汚した麻衣が立っている。その背後には、虎視眈々と睨みを利かせる迅の手下たちが並んでいた。 中央に立つ迅の姿は、相変わらずまっすぐだった。その隣には、車椅子に座り、顔色を失った佳純がいる。 「来たか」 迅は感情の読めない目で真白を見た。 「お前が突き飛ばしたせいで、佳純の子どもは流れた。医者は、もう子どもを持てないと言っている」 第8話 真白は黙っていた。 佳純を好きではない。それでも、その子を殺そうなどと思ったことは一度もなかった。起きてしまった結果は、予想をはるかに超えて重かった。 「申し訳ないと思っているわ」 真白は乾いた声で言った。 「償うつもりよ」 「償うだと?何を根拠に?」 縛られていても、麻衣は負けじと顔を上げて怒鳴った。 「迅!真白はあんたのために、7年前にはもう母親になる道を失っていたのよ。それなのに、どうして一度も彼女に償おうとしなかったの! 今さら、無関係な女のために真白を責めるつもり?」 迅は眉をひそめ、口を開きかけた。 そのとき、車椅子の佳純が突然激しく身を震わせ、真白を憎しみのこもった目でにらんだ。 「血には血を! 葉山さん、あなたが私の子を奪った。あなたも同じ苦しみを味わえばいい!」 真白は唇を結んだまま黙っていた。麻衣が鼻で笑う。 「この子には無理よ。誰かさんのせいで、真白はもう子どもを産めない体なんだから!」 佳純の視線が瞬時に麻衣へ向いた。 「葉山さんと姉妹同然なら、あなたが代わりに苦しめばいい!」 「やめて!」 真白は鋭く制した。 だが、迅は冷たく言った。 「いいだろう」 その軽いひと言が、真白の耳元で雷が落ちたように轟いた。 真白は信じられないものを見るように迅を見た。永遠に自分と、自分のそばにいる者たちを守ると言っていた男を。 迅が命じると、数人の男が麻衣を取り囲み、拳と蹴りを彼女の体へ叩き込んだ。特に腹部へ、容赦なく。 「やめて!お願い、やめて!」 真白は目をむき、駆け寄ろうとした。だが、さらに多くの男たちに固く阻まれた。 一人で大勢を相手にはできない。真白は、麻衣が地面にうずくまり、白い服が瞬く間に赤く染まっていくのをなす術もなく見ているしかなかった。 迅が手を上げて止めたとき、麻衣はもうほとんど息をしていなかった。 「真白、間違いを犯したなら、代償を払うのが当然だ」 迅はそう言い残し、佳純の車椅子を押して埠頭を去った。 真白はようやく麻衣のそばへ駆け寄った。どこに触れればいいのかも分からず、流れ出る血をただ両手で押さえた。 迅が16年の歳月をともにした相手だとすれば、麻衣はそれより長い時間をともにしてきた存在だった。 迷子になった真白が最初に出会った人であり、人生で数少ない、本当の温もりをくれた人。 その温もりが、今は残酷に踏みにじられている。 血の味が喉へ込み上げ、真白はとうとう耐えきれず、血を吐いた。赤い飛沫が地面に散り、目の前の世界を染める。 意識は完全に深い闇へと沈んでいった。 再び意識を取り戻したとき、体が宙に浮く感覚が真白を一瞬で目覚めさせた。 粗い縄で崖際から吊り下げられ、足元には荒れ狂う海が広がっている。 少し離れた場所には、佳純も同じように吊られていた。 「剛……」 真白は、すぐに状況を理解した。 迅に膝を撃ち抜かれた剛が、復讐に来たのだ。 崖上の空き地では、剛が残った手下を率い、迅と向かい合っていた。意外なことに、水瀬夫妻までそこにいる。 「獅堂!」 剛は醜く笑った。 「この間の恨みは、後になって考えれば考えるほど腹の虫が治まらねえ。だから今日は、お前たちに二択の遊びを用意した。 お前と水瀬教授が同時に、助けたい女の名前を言う。答えが同じなら、そいつを助けてやる。 違っていても構わねえ。もう一度だけ機会をやる」 そのルールを聞いたとき、真白の心に、哀れなほど小さな波紋が生まれた。 迅には、もう何も期待していない。だが、病に伏した自分にひとときの温もりを与えてくれた水瀬夫妻には、わずかな期待が芽生えてしまった。 剛は醜く笑いながら数えた。 「3、2、1!」 ほとんど同時に、崖の上へ同じ名前が響いた。 「佳純」 迅の声と、誠一郎と恵の声が重なっていた。迷いなど、少しもなかった。 真白は目を閉じた。 よかった。 彼らはみんな、私を捨てた。 16年の生死をともにした時間は、3か月の純真に勝てなかった。 たった今得た血のつながった親子の情は、24年、朝も夜も寄り添ってきた相手への執着に及ばなかった。 胸の奥の、とうに傷だらけだった場所が、今度こそ完全に踏み砕かれ、灰になった。 真白は、もう大きな苦痛さえ感じなかった。ただ、すべてが決着したという解放感だけがあった。 迅。これが、あなたの言う「何もかも持っている」ということなの? 「答えは見事に一致したな」 剛は薄笑いを浮かべ、手を振った。 真白は、自分を吊っていた縄が切れる音を聞いた。

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