プロモーションを読み込み中...
夫と息子が夫の初恋を選んだ日、私は家族をやめた
十四歳のとき、私の将来は両家によって決められた。 久世家の跡取り――久世冬真(くぜ とうま)の妻になることを。 二十歳で冬真と結婚し、二十四歳で息子の悠生(ゆうせい)を産んだ。 二十九歳になった今も、毎朝五時半に起き、夫と五歳の息子のためにお弁当を作っている。 ところが、その朝。 冬真は、私が差し出したお弁当を受け取らなかった。 「今日は必要ありません。昼は絵里さんと会食です」 それを聞いた悠生も、自分のお弁当を私のほうへ押し返した。 「パパが持っていかないなら、僕もいらない」 「今日は給食がない日ですよ」 「絵里ちゃんが届けてくれるって言ってたもん」 冬真は息子を叱らなかった。 「悠生が喜んでいるなら、問題はないでしょう」 二つのお弁当を冷蔵庫にしまった。 「分かりました。では、明日からは作りません」 翌朝、私――久世真帆(くぜ まほ)は、夫の前に署名済みの離婚届を置いた。 「お弁当が要らないと言っただけで、離婚するんですか?」 「ええ。たったそれだけです」
チャプター (1)
第1章
十四歳のとき、私の将来は両家によって決められた。
久世家の跡取り――久世冬真(くぜ とうま)の妻になることを。
二十歳で冬真と結婚し、二十四歳で息子の悠生(ゆうせい)を産んだ。
二十九歳になった今も、毎朝五時半に起き、夫と五歳の息子のためにお弁当を作っている。
ところが、その朝。
冬真は、私が差し出したお弁当を受け取らなかった。
「今日は必要ありません。昼は絵里さんと会食です」
それを聞いた悠生も、自分のお弁当を私のほうへ押し返した。
「パパが持っていかないなら、僕もいらない」
「今日は給食がない日ですよ」
「絵里ちゃんが届けてくれるって言ってたもん」
冬真は息子を叱らなかった。
「悠生が喜んでいるなら、問題はないでしょう」
二つのお弁当を冷蔵庫にしまった。
「分かりました。では、明日からは作りません」
翌朝、私――久世真帆(くぜ まほ)は、夫の前に署名済みの離婚届を置いた。
「お弁当が要らないと言っただけで、離婚するんですか?」
「ええ。たったそれだけです」
第1話 ただのお弁当
冬真は離婚届を手に取らなかった。
向かいの椅子に深く腰を下ろし、私の顔を見上げただけだった。
「昨日のことで、まだ怒っているんですか?」
会議の席と変わらない、冷静な口調だった。
「怒ってはいません」
私たちは結婚して九年になる。
それでも、二人きりのときでさえ敬語を崩したことは一度もなかった。
それが礼儀なのだと、以前は思っていた。
今なら分かる。
私たちは最初から、夫婦になれるほど近づいたことがなかったのだ。
昨日も、いつもどおり午前五時半に起きた。
冬真は胃が弱いため、脂の多いものは避ける。
午後に重要な商談がある日は、においの強いおかずは避ける。
悠生は野菜が苦手なので、細かく刻んで卵焼きに混ぜる。
季節の行事がある日は、蓋を開けた瞬間に笑ってくれるよう、彩りにも時間をかけた。
そうして毎朝作る二つのお弁当を、当たり前のように二人へ渡してきた。
けれど昨日、冬真は包みを見ただけで言った。
「今日は必要ありません。昼は絵里さんと会食です」
「昨日のうちに、教えていただけませんでしたか?」
「今朝決まったことです。お弁当一つで、そんな顔をしないでください」
何も言わず、差し出した手を引いた。
その様子を見ていた悠生が、自分のお弁当まで押し返してきた。
「パパが持っていかないなら、僕もいらない」
「悠生、今日は給食がない日ですよ」
「大丈夫。絵里ちゃんが、かわいいお弁当を届けてくれるって」
初めて聞く話だった。
「冬真さんは、ご存じだったんですか?」
「昨日、悠生から聞きました」
「それなら、なぜ教えてくださらなかったんです?」
「わざわざ報告するほどのことではないでしょう」
冬真は腕時計を確かめ、椅子から立ち上がった。
「絵里さんは帰国したばかりで忙しいのに、悠生のために時間を作ってくれています。真帆も感謝してください」
朝倉絵里(あさくら えり)。
冬真が大学時代に交際していた、初恋の相手だった。
「絵里さんは、いつから悠生にお弁当を届けているんですか?」
「前にも何度かありました。それが何か問題ですか?」
「母親の私が知らなくても?」
冬真は、わずかに息を吐いた。
「家にいる真帆には分からないでしょうが、僕たちは新規事業の準備で忙しいんです」
「そのことと、悠生のお弁当に何の関係があるんです?」
「何でも悪いほうに受け取るのは、やめてください」
悠生は私たちの会話など気にせず、玄関で靴を履いていた。
「絵里ちゃんのお弁当、すごいんだよ。動物の顔になってて、みんなも見に来るの」
「私のお弁当は?」
「いつも同じで、つまらない」
五歳の子どもの言葉だった。
それでも、胸の奥に小さな棘が刺さった。
冬真は悠生をたしなめる代わりに、玄関の扉を開けた。
「そろそろ行きます。遅刻しますよ」
父子が出ていったあと、二つのお弁当を冷蔵庫にしまった。
冷蔵庫の扉を閉めたとき、もうこの家で私にできることは何もないのだと思った。
翌朝、署名済みの離婚届を冬真の前に置いた。
「悠生はどうするんです?」
「親権は冬真さんに譲ります。離婚の条件については、弁護士から連絡してもらいます」
冬真の視線が、ようやく書類から私へ上がった。
「本気で言っているんですか?」
「はい」
「お弁当が要らないと言っただけでしょう」
「そうですね」
静かにうなずいた。
「冬真さんにとっては、ただのお弁当です」
第2話 捨てられた怪獣
離婚届はそのまま冬真の前に置き、あとの手続きは弁護士に任せた。
寝室のクローゼットを開けたものの、何から手をつければいいのか分からなかった。
この家にあるもののほとんどを、私が選び、私が整えてきた。
冬真のスーツは、季節や用途ごとに分けてある。
悠生の服は、幼稚園用と休日用に分けてある。
冷蔵庫には一週間分の献立と、二人の予定を貼ってあった。
薬箱には常備薬をそろえ、飲む時間を書いた付箋まで貼ってある。
それでも、自分のものだけを選ぶと、キャリーケース一つで足りた。
私の九年間は、驚くほど小さく収まった。
最後に悠生の部屋を確認すると、ごみ箱から青い布がのぞいていた。
引っ張り出すと、いびつな角が二本生えた怪獣のぬいぐるみが出てきた。
先月、悠生が描いた怪獣をもとに、私が夜中までかかって縫ったものだった。
机の中央には、絵里から贈られた、見るからに高価そうなロボットのおもちゃが飾られている。
「これ、捨てるの?」
床で遊んでいた悠生が、ちらりと顔を上げた。
「だって、かっこ悪いもん」
「悠生が描いた怪獣でしょう?」
「絵里ちゃんがくれたロボットのほうがすごいよ。英語もしゃべるんだよ」
悪気のない声だった。
だからこそ、余計に胸へ刺さった。
ぬいぐるみについた埃を払い、ごみ箱の横へ置いた。
持っていくことはしなかった。
これは悠生のために作ったものだ。
要らないと言われた以上、私が抱えていく理由もなかった。
「どちらへ行くつもりですか?」
振り返ると、冬真がドア枠にもたれていた。
「残ったものは、家事代行の方に処分してもらってください」
ダイニングテーブルに、ファイルを一冊置いた。
悠生の幼稚園の予定、かかりつけ医、予防接種の記録。
冬真の会食予定、クリーニング店、家事代行の連絡先。
私がいなくても困らないよう、必要なことはすべてまとめてある。
冬真はファイルを開こうともせず、眉をひそめた。
「大げさですね。少し頭を冷やしたら、戻ってきてください」
「戻りません」
「真帆」
「離婚を口にして、冬真さんを脅したことなど一度もありません」
冬真の顔から、初めて余裕が消えた。
「手続きには時間がかかります。今すぐ出ていく必要はないでしょう」
「終わらせるなら、きれいに終わらせたいんです」
キャリーケースを引いて玄関へ向かうと、悠生が後ろからついてきた。
「ママ、明日からお迎えに来なくていいよ」
「どうして?」
悠生は唇を尖らせた。
「絵里ちゃんに来てもらうから。僕、ママじゃなくて絵里ちゃんがいい」
悠生は、私が本当に家を出ていくとは思っていないらしい。
困った顔もせず、絵里からもらったロボットを抱き上げた。
「絵里ちゃんがママになったら、毎日楽しいかも」
冬真は息子を叱らなかった。
ただ私に向かって、冷たい声で言った。
「五歳の子ども相手に、意地にならないでください」
玄関の鍵と結婚指輪を、靴箱の上に置いた。
悠生に向き直り、最後に一つだけ告げた。
「知らない人には、ついていかないでね」
「運転手を出します」
背後から冬真の声がした。
「必要ありません」
靴を履き、九年間暮らした家を出た。
第3話 社長夫人という檻
家を出たその足で東京駅へ向かい、新神戸行きの切符を買った。
神戸を選んだことに、特に理由はなかった。
ただ、久世家とも実家とも関係のない場所へ行きたかった。
十四歳のとき、両家の間で私と冬真の縁談が決まった。
それからは、久世家の嫁にふさわしくあることを求められた。
私立の名門校へ進み、語学も礼儀作法も学んだ。
茶道も、華道も、着付けも、箏も。
久世家の嫁に必要だと言われたものは、ひととおり身につけた。
成績を落とせば、「久世家の名に泥を塗るつもりか」と叱られた。
勉強を禁じられたわけではない。
むしろ、誰より優秀で、誰より行儀よくあることを求められた。
許されなかったのは、自分の人生を自分で選ぶことだけだった。
十六歳の頃、私は家族に黙ってレーシングカートを始めた。
ヘルメットをかぶれば、誰の娘でも、誰かの婚約者でもなくなれた。
タイムだけが、私を公平に評価してくれた。
初めて地方大会で表彰台に立った日、父に知られた。
「久世家の嫁になる娘が、危険な真似をするな」
ヘルメットを取り上げられ、次の大会への出場も取り消された。
けれど、黙って従わなかった。
父とは何度も言い争った。
食事を拒み、部屋に閉じこもって、それでも走りたいと訴え続けた。
最後に頼ったのは、婚約者だった冬真だった。
「冬真さんからも、父を説得していただけませんか」
冬真は困ったように眉を寄せた。
「結婚後は、危険なことをやめてください。そのほうが皆も安心するでしょう」
「冬真さんも、私が走ることを恥ずかしいと思うんですか?」
「そういう話ではありません。真帆には、もっと大切な役目があります」
当時の私は、その言葉を期待されている証拠だと思おうとした。
結局、自分の手でヘルメットを父へ返した。
二十歳で冬真と結婚し、二十四歳で悠生を産んだ。
夕方に悠生を迎え、夜遅く帰る冬真を待つ。
二人の体調と予定を覚え、両家の集まりでは完璧な妻として振る舞った。
周囲は私を「久世家のためにあつらえたような嫁」と褒めた。
一方で、陰では面白みがなく、堅苦しい女だと言われていた。
以前、冬真の友人たちが話しているのを聞いたことがある。
「お前の奥さん、相変わらず隙がないよな」
「あれだけ完璧だと、家でも気が抜けないんじゃないか?」
「朝倉みたいな女のほうが、話していて楽しいだろ」
冬真は否定しなかった。
朝倉絵里(あさくら えり)は、冬真の初恋だった。
久世家から交際を反対され、二人は別れた。
絵里はニューヨークの出版社で働くため、日本を離れた。
その後、冬真は長く拒んでいた私との縁談を受け入れ、自ら結婚を申し込んだ。
私は、ようやく選ばれたのだと信じた。
けれど絵里が帰国すると、彼女は当然のように冬真の隣へ戻ってきた。
仕事の話ができる絵里。
海外の話で悠生を笑わせられる絵里。
そして、家で二人の帰りを待つことしかできない私。
そう思い込まされていただけだ。
第4話 絵の中に、私はいなかった
神戸へ着いてから、海の見える小さなホテルに部屋を取った。
誰かの帰宅時間を気にせず、自分のためだけに一日を使う。
そんな当たり前のことさえ、私には新鮮だった。
家を出て三日目の朝、冬真から突然電話がかかってきた。
「真帆。去年のチャリティーオークションで落札したルビーのカフリンクスは、どこにありますか」
挨拶もなく、用件だけを告げる声は、家にいた頃と何も変わらない。
まだ目覚めきらない頭で、反射的に答えていた。
「寝室のウォークインクローゼットにあります。右側の二段目、奥にある黒いケースの中です」
電話の向こうで、引き出しを開ける音がした。
「今日は何のご予定ですか?」
「新しい商業施設の開業式典です」
「それでしたら、チャコールグレーのスーツが合います。左から四着目です」
ハンガーを動かす音に交じって、冬真のかすかな舌打ちが聞こえた。
しばらくして、音が止んだ。
「見つかりましたか?」
ようやく自分が誰に電話をかけたのか思い出したように、冬真は声を落とした。
「ありました」
「手間を取らせて、すみません」
「いえ」
長いあいだ染みついていた習慣が、私より先に答えてしまっただけだ。
「一度、家事代行の方にクローゼットを整理してもらってください。次からは、その方に聞いてください」
「それから、物の場所を聞くためだけに電話をかけてくるのは、もうやめてください」
短い沈黙のあと、冬真は低く答えた。
「……分かりました」
通話を終えると、冬真の番号を着信拒否にした。
もう一度ベッドに戻り、目を閉じた。
けれど、眠りは浅かった。
途切れ途切れの夢の中で、昔の景色がいくつも浮かんでは消えた。
十四歳、友人たちと笑いながら校舎を駆け抜けた日のこと。
十五歳、雲一つない空の下で、初めて冬真に会った日のこと。
十六歳、家族に黙ってレーシングカートを始めたことを父に知られ、無理やり連れ戻された日のこと。
それから――
耳を刺すような着信音で、目が覚めた。
苛立ちながらスマートフォンを手に取ると、知らない番号が表示されていた。
「久世悠生くんのお母様でいらっしゃいますか?」
悠生が通う私立幼稚園の担任だった。
担任の声は、ひどく困っているようだった。
「来週の親子遠足について、確認したいことがございまして」
「はい」
「悠生くんから、親子遠足には朝倉絵里さんと参加すると伺っているのですが、申込書にはまだ保護者の署名がなくて……。ご親族以外の方が付き添う場合は、事前に保護者の同意が必要になります」
窓の外の海を見た。
「悠生のお父さんは、何と言っていますか?」
「お仕事中のようで、まだ連絡がつかなくて……。悠生くんは、お母様もご存じだと話しているのですが」
そんな話は、一度も聞いていない。
「そのようなお話は伺っておりません。今後のことは、父親に確認していただけますか?」
「かしこまりました。それから、もう一つありまして……」
担任は、言いにくそうに言葉を選んだ。
「本日、園で『家族』をテーマにした絵を発表したのですが、悠生くんの絵について、念のため確認させていただきたくて」
少しして、幼稚園の連絡アプリに写真が届いた。
画用紙には、手をつないだ三人の人物が描かれていた。
頭の上には、覚えたばかりのひらがなで名前が書かれている。
『ぱぱ』『ゆうせい』『えりちゃん』
どこを探しても、『まま』はいなかった。
「こちらの女性は、ご親戚の方でしょうか?」
「いいえ。悠生のお父さんの仕事関係の方です」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「あの……悠生くんが、お母様とお話ししたいそうです」
少し迷ってから、代わってもらった。
「ママ?」
家を出て、まだ三日しかたっていない。
それなのに、その声を聞くのがひどく久しぶりに感じた。
「どうして、家族の絵に絵里さんを描いたの?」
「だって、絵里ちゃんも家族になるんでしょ?」
「誰がそう言ったの?」
「今度、パパと絵里ちゃんと三人で旅行するって。絵里ちゃんが言ってた」
以前、私も冬真に、家族三人で旅行へ行きたいと言ったことがある。
けれど冬真は、「仕事が忙しい」の一言で取り合わなかった。
悠生が生まれてから五年、三人で泊まりがけの旅行をしたことは一度もない。
それなのに、絵里とは行くのだ。
胸の奥が、静かに冷えていった。
「ママは?」
悠生は不思議そうに答えた。
「ママはおうちで待ってればいいじゃん」
目を閉じ、小さく息を吐いた。
「親子遠足も、絵里さんと行くの?」
「うん。でも、絵里ちゃんがお仕事で行けなくなったら、ママが来てね」
あまりにも当然の口調だった。
家族の絵から私を外しておきながら、必要なときには必ず来ると思っている。
「行かないわ」
電話の向こうが静かになった。
「どうして?」
「自分で選んだ人に、来てもらいなさい」
「でも、絵里ちゃんが無理だったら?」
悠生の声に、苛立ちが混じった。
「ママはお仕事してないんだから、いつでも来られるでしょ?」
「悠生、よく聞いて」
「これからは、お迎えも遠足も、困ったときは全部お父さんに頼んで」
私はもう、あの家には戻らない。今までどおりの母親でいることも、もうできない。
担任にひと言詫び、悠生の声を聞かないまま電話を切った。
しばらくして、冬真からメッセージが届いた。
【悠生を泣かせたそうですね。五歳の子どもに八つ当たりするのはやめてください】
続けて、もう一通。
【親子遠足には絵里さんが付き添います。真帆が戻らなくても、悠生は困りません】
短く返信した。
【分かりました。では、離婚届に署名してください】
すぐに既読がついた。
けれど、返事が届いたのは、しばらく経ってからだった。
【今は感情的になっているだけでしょう】
【離婚届には署名しません。どうせ、あなたは戻ってきます】