ブサイクの仮面、真実の顔と届かぬ愛

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ブサイクの仮面、真実の顔と届かぬ愛

GoodNovel 完結

界隈では、楠瀬夏生(くすのせ なつき)はちょっとした有名人だった。もっとも、良い意味ではない。 分厚い前髪で顔の半分を覆い隠し、瓶底のような黒縁眼鏡をかけている。肌にはいつもくすんだファンデーションを厚塗りし、色の濃い口紅でわざと唇の輪郭を不格好に描く。 そんな夏生を、街ですれ違う人がわざわざ振り返って見ることはまずなかった。 けれど誰も知らない。それが夏生自らが選んだ「醜さ」だということを。 きっかけは母だった。 母はかつて評判の美人だった。父が猛烈に口説き落として嫁にしたものの、結婚して3年も経たないうちに、父が浮気を繰り返すのが日常茶飯事になっていた。悲しみは絶望に変わり、やがて心を病んだ母は、そのまま逝ってしまった。 死の床で、母はまだ10歳だった夏生の手を握りしめた。幼いながらすでに美貌の片鱗を見せ始めていた顔を見つめ、残された力を振り絞るように言った。 「夏生……っ、ママの言葉を、忘れないで。綺麗すぎる女は、男に騙されるの。不幸な末路をたどるわ……自分の身は自分で守りなさい。その顔は、隠しておくのよっ」 夏生はその言葉を胸に刻んだ。 その日を境に、彼女はわざと自分を醜く装うようになった。前髪は年々厚くなり、眼鏡のレンズは分厚くなり、選ぶ服はいつも目立たない色ばかり。 父は数え切れないほどの見合いをセッティングしたが、相手はみな夏生の外見を目にした途端、逃げるように去っていった。 100回目の見合いの日。夏生は喫茶店の席に座っていた。向かいには、仕立てのいいスーツに身を包んだ男。 男は夏生を一瞥するなり、露骨に眉をひそめた。 「楠瀬さん」 嫌悪感を隠そうともせず、男が口を開く。 「仲人からは、こんな見た目だとは聞いていませんでしたが」 夏生はうつむいたまま、何も答えなかった。 「正直に言わせてもらいますけど」 男は鼻で笑った。 「ふんっ。そんな見た目で、よく見合いの席にのこのこ出てこられますね。誰があなたと結婚したがると思うんです?」 夏生はコーヒーカップを握る手に力を込めた。 男は自分のカップを持ち上げると、突然、夏生の顔にコーヒーをぶちまけた。 「化粧が崩れたほうが、よっぽどお似合いですよ」 冷たい液体が頬を伝い落ち、崩れたファンデーションの下から、白い素肌がのぞいた。

チャプター (1)

第1章

界隈では、楠瀬夏生(くすのせ なつき)はちょっとした有名人だった。もっとも、良い意味ではない。 分厚い前髪で顔の半分を覆い隠し、瓶底のような黒縁眼鏡をかけている。肌にはいつもくすんだファンデーションを厚塗りし、色の濃い口紅でわざと唇の輪郭を不格好に描く。 そんな夏生を、街ですれ違う人がわざわざ振り返って見ることはまずなかった。 けれど誰も知らない。それが夏生自らが選んだ「醜さ」だということを。 きっかけは母だった。 母はかつて評判の美人だった。父が猛烈に口説き落として嫁にしたものの、結婚して3年も経たないうちに、父が浮気を繰り返すのが日常茶飯事になっていた。悲しみは絶望に変わり、やがて心を病んだ母は、そのまま逝ってしまった。 死の床で、母はまだ10歳だった夏生の手を握りしめた。幼いながらすでに美貌の片鱗を見せ始めていた顔を見つめ、残された力を振り絞るように言った。 「夏生……っ、ママの言葉を、忘れないで。綺麗すぎる女は、男に騙されるの。不幸な末路をたどるわ……自分の身は自分で守りなさい。その顔は、隠しておくのよっ」 夏生はその言葉を胸に刻んだ。 その日を境に、彼女はわざと自分を醜く装うようになった。前髪は年々厚くなり、眼鏡のレンズは分厚くなり、選ぶ服はいつも目立たない色ばかり。 父は数え切れないほどの見合いをセッティングしたが、相手はみな夏生の外見を目にした途端、逃げるように去っていった。 100回目の見合いの日。夏生は喫茶店の席に座っていた。向かいには、仕立てのいいスーツに身を包んだ男。 男は夏生を一瞥するなり、露骨に眉をひそめた。 「楠瀬さん」 嫌悪感を隠そうともせず、男が口を開く。 「仲人からは、こんな見た目だとは聞いていませんでしたが」 夏生はうつむいたまま、何も答えなかった。 「正直に言わせてもらいますけど」 男は鼻で笑った。 「ふんっ。そんな見た目で、よく見合いの席にのこのこ出てこられますね。誰があなたと結婚したがると思うんです?」 夏生はコーヒーカップを握る手に力を込めた。 男は自分のカップを持ち上げると、突然、夏生の顔にコーヒーをぶちまけた。 「化粧が崩れたほうが、よっぽどお似合いですよ」 冷たい液体が頬を伝い落ち、崩れたファンデーションの下から、白い素肌がのぞいた。 第1話 夏生が顔を上げ、席を立とうとしたその瞬間―― ドンッ、と鈍い音が響いた。 すっと伸びた手が横から割り込み、男の手首を掴んで容赦なくひねり上げる。 「うわああっ!」男が悲鳴を上げた。 「謝れ」 低く、凍りつくような声だった。 振り向いた夏生の視線の先には、仕立てのいいスーツを纏った男が立っていた。 すらりとした長身、まっすぐに伸びた背筋、彫りの深い目元に筋の通った鼻。薄い唇はきつく結ばれ、全身から研ぎ澄まされた気品が漂っている。今その手は男の手首を握りしめたまま、男へ氷のように冷ややかな視線を向けていた。 「な、なんだよお前!」 男がもがく。 「謝れ」 早乙女駿平(さおとめ しゅんぺい)はもう一度、同じ言葉を繰り返した。声量は変わらないのに、圧倒的な威圧感が確かにそこにあった。 その気迫に呑まれた男は、震える声で「す、すみません」とだけ絞り出すと、逃げ去っていった。 駿平は手を離すと、内ポケットからハンカチを取り出し、夏生に差し出した。 「これで拭きなさい」 夏生は、ぼんやりとそれを受け取った。 「女性が、こんな理不尽な扱いを受ける筋合いはない」 駿平は静かな眼差しで夏生を見つめた。 「次にこんなことがあったら、迷わず警察を呼べばいい」 言い終えると、駿平はそのまま踵を返して立ち去った。 夏生はその場に立ち尽くしたまま、彼のまっすぐな背中が喫茶店の入り口の向こうへ消えるのを見送った。心臓がうるさいほど鳴っていた。 夏生は、彼のことを忘れなかった。 家に戻ってから、夏生はすぐに駿平のことを調べ始めた。 名前は早乙女駿平。早乙女グループ史上最年少の後継者で、現在26歳。3年前から一族の企業を率い、その手腕は冷徹かつ卓越している。財界では「完璧な男」として名を馳せている。 そして、何より珍しいのは、私生活が徹底してストイックであること。浮いた噂ひとつなかった。 夏生の心は、大きく揺れ動いた。 だが、どう近づけばいいのか考える間もなく、駿平の方が先に夏生のもとを訪れた。 「楠瀬さん」 リビングに腰を下ろすなり、駿平は前置きもなく切り出した。 「君との結婚を考えています」 夏生は言葉を失った。 「……どうして、私なんですか?」 ようやく口にできたのはそれだけだった。 「私、こんな見た目ですよ」 駿平は、静かで揺るぎない眼差しで夏生を見つめた。 「外見なんてどうでもいい。君が、ちょうどいいと思っただけだ」 ちょうどいい。 ロマンチックとは程遠い、素っ気ない言葉だった。それなのに駿平の口からその言葉がこぼれた瞬間、夏生の胸は高鳴った。 母は言っていた。綺麗すぎる女は男に騙されると。 けれど自分は、わざと醜く装っているのに。それでも駿平は、こんな自分を妻にしたいと言う。 この人こそ、探していた相手なのかもしれないと、夏生はそう思った。 結婚してから3年、駿平はずっと夏生に優しかった。 夏生の容姿を疎んだことは一度もない。それどころか夏生の外見を陰で笑う者がいれば、そっと手を握って言うのだ。 「夏生。君はそのままでいい」 夏生がデザインを好きだと知れば、迷わずアトリエ開業の資金を出してくれた。 胃が弱いと知れば、苦手な食べ物まできちんと覚えてくれて、接待の帰りには決まって温かいうどんを買ってきてくれた。 誕生日には、どれほど仕事が立て込んでいても全て後回しにして、一日中そばにいてくれた。 ある時など、夏生が事故に遭い、乗っていた車が横転して側溝に落ち、いつ爆発してもおかしくない状況の中、駿平はなりふり構わず駆けつけ、素手で歪んだドアをこじ開け、夏生を車内から救い出してくれた。 車から10メートルも離れないうちに、車は爆発した。 駿平は自分の体で夏生を庇い、爆風と炎を浴びて重度の火傷を負った。 病院で目を覚ました夏生が、真っ先に看護師に尋ねたのは「夫は!?夫は無事なんですか!?」だった。 「ご主人の背中の火傷はかなり重いですが、命に別状はありません」 看護師はそう答えた。 「隣の病室にいらっしゃいますよ」 夏生はすぐさま点滴の針を引き抜き、よろめきながら隣の病室へと向かった。 扉に手をかけようとしたその時、中から声が聞こえてきた。駿平の母、早乙女一美(さおとめ かずみ)の声だった。 「駿平!あんな不細工な女を嫁にして、一族の笑い者になっただけじゃ足りず、今度は彼女のために命を危険に晒すなんて!いつまでこんな馬鹿な真似を続けるつもりなの!?」 夏生の手が、ドアノブの上で止まった。 室内が一瞬、静まり返る。それから聞こえてきたのは、駿平の感情の読めない、凪いだ声だった。 「……母さん。俺が何を望んでいるか、わかっているはずです」 「あんたがそんなことをするのも、結局は都和のためなんでしょう!」 一美の声は怒りに震えていた。 「言っておくけど、あんたはうちで一番期待されてる後継者なんだからね。都和なんて絶対に認めない!どれだけ好きでも無理よ。夏生を使って私たちに当てつけたって無駄なんだから!」 夏生はその場に立ち尽くした。全身から血の気が引いていく。 今のふたりは、何の話をしていたの? 都和のため?都和って、誰? 底の見えない恐怖と絶望的な予感が、冷たい波のように押し寄せ、瞬く間に自分を呑み込んだ。 夏生は壁に手をついてよろよろと後ずさり、逃げるように自分の病室へ戻った。 しばらくして、震える手でようやくスマホを取り出し、興信所へメッセージを送った。 【早乙女駿平と、都和という名前の女について調べてください。ふたりの関係を、できる限り詳しく】 返信を待つ一分一秒が、まるで拷問のように長く感じられた。 頭の中では、一美の鋭い「あんな不細工な女」「都和のために」という言葉と、駿平の淡々とした「俺が何を望んでいるか、わかっているはずです」が、何度もこだましていた。 それらの言葉は、まるで毒を塗った刃のように、ようやく温もりを取り戻しかけていた夏生の心を容赦なく切り刻んでいく。 そして、ついに調査結果が届いた。 夏生は震える手でそれを開いた。 送られてきたのは、大量の資料と何枚もの写真だった。 第2話 黒川都和(くろかわ とわ)。黒川家の令嬢であり、駿平の初恋の相手だった。家柄も釣り合い、才色兼備。社交界では公認の「お似合いのふたり」として知られていた。 3年前、ふたりは結婚を控えていたが、婚前健診で都和が子供を望めない体だと判明した。早乙女家ほどの名家にとって、跡継ぎは何より重い問題だ。当然、一族からは猛反対を受けた。 それでも駿平は都和を強く想い、結婚の意思を貫こうとした。すると早乙女家は、黒川家の事業に徹底的な圧力をかけ始めた。やがて黒川家は圧力に耐えきれず、都和は涙ながらに駿平に別れを告げた。 別れてから、駿平は次々と見合いを重ねたが、誰にも心を動かされなかった。 そして出会ったのが、夏生。周囲の誰もが認める「不美人」だった。 そこまで読んで、すべてが繋がった。 駿平が自分を妻にしたのは、何か特別な理由があったからではない。ましてや、内面を見初められたわけでもない。 ただ、見合い相手の中で一番見栄えが悪く、人前に出しにくく、早乙女家に恥をかかせることができ、両親を怒らせ、屈服させるのに最も都合のいい道具だったからだ。 わざと不細工な女を妻に迎えることで一族に反旗を翻し、彼らを屈服させ、都和を迎え入れる道を作るためだった。 夏生はスマホの画面に映る文字を見つめ、ふと笑った。 笑っているうちに、涙がこぼれ落ちた。 苦しみが巨大な網となって夏生に絡みつき、締め付けた。息の根を止められそうなほどに。 母は「綺麗すぎると騙される」と言った。けれど自分はわざと醜く装っていたのに、それでも騙された。もっと徹底的に、もっと滑稽に、もっと惨めに! この3年、幸せだと思い込んでいたものは、すべて周到に仕組まれた芝居に過ぎなかった。 自分はただ、駿平が一族に見せつけるための道具。 都和への想いを貫くための、駒でしかなかった。 光を見つけたと思っていたのに。その光は、他の誰かに向けられたものが、鏡越しに反射していただけだったのだ。 夏生は部屋にひとり座り込み、長いこと泣いた。 やがて涙を拭うと、スマホを手に取り、一美に電話をかけた。 声は、驚くほど静かだった。 「……駿平と、離婚します」 電話の向こうが、数秒黙り込んだ。 「な、なんですって!?」一美は信じられないといった様子で声を上げた。「あんた、自分のその顔で自分から離婚するって言うの?駿平と結婚したい女がどれだけいるか、分かってるの?」 「私がどう見えるかは、あなたには関係ありません」夏生は静かに答えた。「私は離婚します。早乙女家が納得しないなら、弁護士を通して進めます。そこまで大ごとになれば、お互い困るでしょう」 一美は電話の向こうで苛立った声を上げていたが、その声の裏に、隠しきれない安堵と、離婚を急かすような気配があるのを夏生は聞き取っていた。 そうだろう。一美は前々からこの「ブサイクな嫁」を疎ましく思っていたのだ。一刻も早く追い出して、もっとふさわしい令嬢のために席を空けさせたいと。 一美の中では、都和でさえ駿平には不釣り合いなのに、夏生など論外だったのだから。 「いいわ!」一美は最後にそう言い切った。「離婚の件は、私が話をつけてあげる。数日待ちなさい」 電話を切ると、夏生は深く息を吸い込み、そのまま退院の手続きを済ませて家に帰った。 家に着いて真っ先にしたのは、物を処分することだった。 駿平がこれまでに贈ってくれたネックレス、ブレスレット、指輪、バッグ。すべて引っ張り出し、ゴミ箱に放り込んだ。 まるで、この3年間の愚かさを捨て去るように。 数日後、駿平が帰ってきた。 背中の火傷はまだ完全には癒えておらず、動きはどこかぎこちなかったが、それでも仕立てのいいスーツを纏い、姿勢はまっすぐで、涼やかな顔立ちは相変わらずだった。 「どうしてこんなところにぼーっとしてるんだ?」 駿平はいつもの穏やかな口調で尋ねた。 「使用人から、この数日ろくに食事も摂っていないと聞いたが」 夏生は顔を上げ、駿平を見つめた。 以前なら、この顔を見るたびに胸が高鳴り、頬が熱くなった。 けれど今は、ただ他人のように冷たく、遠く感じるだけだった。 駿平はその変化に気づいていない様子だった。いや、そもそも駿平は、これまで一度も夏生の眼差しをきちんと見たことがなかったのかもしれない。 駿平はふと壁のカレンダーに目をやると、自然な仕草で夏生の手を取った。 「俺が戻ってこなかったせいで、機嫌が悪いのか?今日は君の誕生日だろう。市内で一番いいホテルに、誕生日パーティーの会場を用意させた。まだ時間があるから、先にドレスを買いに行こうか」 以前の夏生なら、自分の誕生日を覚えていてパーティーまで用意してくれたと知れば、舞い上がるほど喜んでいただろう。だが今は、心の中に広がるのは乾いた冷笑だけだった。 それでも、夏生はその気持ちを表には出さなかった。 「いいわ」夏生は小さく答えた。 駿平は車で夏生を高級ドレスショップへ連れて行った。 店に入ってすぐ、駿平のスマホが鳴った。 「先に選んでてくれ。電話に出てくる」 そう言って、駿平は少し離れた場所へ移動した。 夏生は気にも留めず、2階へ上がってドレスを選び始めた。 シンプルで上品な、シャンパンゴールドのロングドレスに目を留めた。 「これを、包んでください」 店員にそう告げた。 「そのドレス、私がいただくわ」 背後から、柔らかな女の声がふいに響いた。 夏生が振り返り、声の主を目にした瞬間、一気に血の気が引いた。 都和。 写真の中でしか見たことのなかった、華やかで自信に満ちた、駿平に寄り添うあの顔が、今、目の前に立っていた。 アイボリーのセットアップに、緩く巻かれた長い髪。丁寧に整えられたメイク。生まれ持った優越感を宿した瞳が、夏生の手にあるシャンパンゴールドのドレスを、品定めするように見つめていた。 第3話 「ごめんなさい」 都和が歩み寄ってきた。声は柔らかいのに、口調には少しも遠慮がなかった。 「そのドレス、私も気に入ってしまって。先に見つけたのはあなたみたいだけど」 都和は夏生の分厚い前髪と黒縁眼鏡をさっと上から下まで眺めると、口角をわずかに持ち上げた。 「私のほうが、似合う気がするの。ねえ、譲ってくれないかしら?」 夏生は手にしたドレスを握りしめた。柔らかな生地のはずなのに、今は棘のように手のひらに食い込んだ。 「譲りません」 夏生は店員に向き直った。 「お会計をお願いします」 都和の笑みがわずかに翳り、ドレスのもう一方の端をぐいと掴んだ。 「本当に気に入ってるの。あなた、そんな見た目じゃ、何を着ても大差ないでしょう?いっそ私に譲ってくれない?」 ふたりは互いに引かず、無言のまま火花の散るような空気が漂った。 「どうした?」 階段の方から、駿平の低い声が響いた。電話を終えて上がってきたところでこの光景を目にし、わずかに眉をひそめた。 都和は駿平の姿を見るなり目を輝かせたが、ドレスを掴んだ手はそのままだった。 「駿平?あなたもここに?」 都和の視線が夏生と駿平の間を行き来し、やがて何かに気づいたような表情を浮かべた。 「もしかして、この方が奥さん?まあ、知っていたら、無理に取り合ったりしなかったのに。このドレス、奥さんにお譲りするわ」 そう言って手を離す。まるで、さっきまでの意地の張り合いが冗談だったかのように。 けれど次の瞬間、駿平は夏生の手からそのシャンパンゴールドのドレスを取り上げ、都和へと差し出した。 「いや、いい」 駿平は都和を見つめ、さっきよりも柔らかい声で言った。 「これは君に似合う。試着してくるといい」 都和の瞳の奥に、かすかな勝ち誇った色がよぎった。都和はドレスを受け取ると、夏生に向かって軽く微笑み、試着室へと消えていった。 夏生の手は宙で止まったままだった。指先には、まだ布を奪われた感触が残っている。 夏生はゆっくりと手を下ろし、拳を握った。爪が手のひらに食い込む鈍い痛み程度では、胸の奥を鈍い刃で抉られるような痛みを誤魔化すことはできなかった。 駿平がようやく夏生に向き直った。まるで、取るに足らない用事を片付けたばかりというような顔で。 「夏生、さっきの人は黒川都和だ。俺の……知り合いだ。少し思ったことをはっきり言うだけで、悪気はない。ドレスくらい、他のを選べばいい」 夏生は顔を上げ、分厚いレンズの向こうから駿平を見た。 「本音を言えばいいじゃない。彼女の方が似合うって思ったのは、結局、私のこの顔じゃ、あのドレスにも、美しいものすべてに釣り合わないと思っているからじゃないの?」 駿平は明らかに一瞬、言葉に詰まった。 夏生がこんな形で切り返してくるとは、まして、暗黙のうちに保たれていた体裁をこうもはっきりと暴くとは、想像していなかったのだろう。 「……いや、そういう意味じゃない」 駿平はすぐに表情を立て直したが、声にはわずかな困惑が滲んでいた。 「俺が君を釣り合わないと思っていたなら、そもそもどうして君と結婚した?」 どうして結婚したのか。 その一言は、毒を塗った刃のように夏生の胸に突き刺さり、目の前が暗くなるほどの痛みを走らせた。 そう、どうしてなのか。 答えはわかっている。私がちょうどいい程度に不美人で、最も都合のいい道具で、早乙女家を完璧に怒らせ、屈服させるための駒だったからだ。 物心ついた頃から、容姿を隠してきたせいで、夏生は数え切れないほどの嘲りを浴びてきた。 同級生の陰口、見合い相手の暴言、父のため息。その言葉の一つひとつが針のように刺さり、長い間刺され続けるうちに、感覚さえ麻痺していたはずだった。 けれど駿平は違った。 この3年、駿平が見せてきた穏やかな慰めや、さりげない気遣い、命を懸けて助けてくれたあの瞬間の情の深さは、まるでぬるま湯のように、少しずつ凍りついた夏生の心を溶かし、抱いてはいけない期待と依存を芽生えさせた。 そして今、その手で。最も静かに、最もさりげない仕草で、その偽りの温もりを粉々に打ち砕いていく。 あからさまな悪意よりも、これはよほど残酷だった。 夏生は喉元にせり上がる嗚咽と渦巻く痛みを必死に押し殺し、何も言わずに背を向けると、別のラックに歩み寄り、無造作に1着の黒いシンプルなロングドレスを手に取った。 そのとき、試着室のカーテンが開いた。 都和が出てきた。 シャンパンゴールドのドレスは都和の体のラインを完璧に描き出し、雪のように白い肌をいっそう際立たせ、輝くばかりの華やかさだった。くるりと1回転すると、裾が優雅な弧を描いて広がった。 「本当にお似合いです!」 店員たちが口々に感嘆の声を上げた。 「まるで、黒川様のために誂えたようなドレスですね!」 駿平の視線も、都和に注がれていた。 その瞳の奥には、都和の姿がはっきりと映り込んでいる。いつも冷ややかなその瞳の底に、今まさに、夏生がずっと探し求めていながら、1度も自分には向けられたことのない、かすかな愛おしさがよぎった。 一瞬だったが、夏生はそれを見逃さなかった。 心臓を、見えない手にきつく握り潰されたような痛みが走り、息が詰まった。 「駿平、似合うかしら?」 都和が微笑みながら尋ねた。視線は、それとなく傍らの夏生をかすめていく。 「ああ、よく似合ってる」駿平は頷き、はっきりとそう答えた。 都和の笑みが、さらに華やかになった。 彼女は駿平のそばに寄り、耳にかかった髪をごく自然な仕草で払った。 「そういえば、今夜は奥さんの誕生日パーティーなんですって?グランドハイアットで?」 「ああ」駿平が頷く。 「ちょうど今夜、時間が空いているの」 都和が夏生に視線を向けた。品よく微笑みながら。 「私もお祝いに行っていいかしら?」 夏生が口を開くより早く、駿平が答えた。「もちろん構わない。ぜひ来てくれ」 第4話 グランドハイアットの最上階、宴会場は煌びやかな光に満ちていた。 駿平が夏生のために用意した誕生日パーティーは規模が大きく、この街の名士たちの半分近くを招いたかと思うほどだった。 夏生は目立たない黒のドレスに身を包み、いつも通り分厚い前髪と眼鏡で顔を隠したまま、駿平の隣に立っていた。まるで、その場に馴染めない影のように。 四方から突き刺さる視線を、夏生は肌で感じていた。好奇の目、探るような目、そして何より隠す気もない蔑みと忍び笑い。 「早乙女社長も、いったい何を考えてあんな人を……」 「見た目は、正直、言葉に詰まるわね。あれだけ優秀な方が、何が目当てなのかしら」 「さあ。もしかして、好みが独特なのかも」 囁くようなその声が、蚊の羽音のように夏生の耳の中に入り込んでくる。 夏生は背筋をまっすぐに伸ばし、表情ひとつ変えず、何も聞こえていないかのように振る舞った。 パーティーが始まってしばらくして、駿平は皆の前で夏生に贈り物を渡した。一目で高価だとわかるダイヤモンドのネックレスだった。 ベルベットのケースが開かれた瞬間、周囲から小さな驚嘆と羨望のため息が漏れた。 「ありがとう」 夏生はそれを受け取ったが、声には抑揚がなかった。 都和が到着したのは、少し遅れてのことだった。 彼女が現れた瞬間、会場中の視線がそちらへ吸い寄せられた。シャンパンゴールドのドレス、完璧に整えられたメイク、優雅な笑み。まるで、今夜の主役は自分だと言わんばかりだった。 「ごめんなさい、遅くなって」 都和は夏生の前まで来ると、申し訳なさそうな口調で言った。 「贈り物を準備する時間がなかったの。お詫びに、拙いけれど1曲弾かせてもらってもいいかしら。お誕生日おめでとう」 そう言うと、都和は微笑みながら駿平に視線を移した。 「そういえば駿平、あなたピアノも上手だったわよね。せっかくだから、連弾しない?奥さんのお祝いに、少し華を添えられたらと思うの」 招待客たちが囃し立て始めた。 「早乙女社長、1曲どうぞ!」 「黒川さんと早乙女社長、本当に絵になるおふたりですね!」 「本当に、お似合いだこと」 駿平は都和の期待に満ちた眼差しを見つめ、ちらりと隣で黙り込む夏生に目をやると、少し考える素振りを見せた後、本当にピアノの前へと歩いていった。 息の合った演奏が始まった。「エリーゼのために」の連弾版。駿平は涼やかで気品に満ち、都和は華やかで人を惹きつける。並んで座るふたりの姿は、まるで1枚の絵のようだった。 周囲のざわめきは、いっそう大きくなった。今度は、取り繕う気配すらほとんどなかった。 「これぞ、お似合いっていうものよね」 「早乙女社長も、最初から黒川さんを妻に選んでいればよかったのに」 「まったく、残念な話だわ」 「あの夏生さんとやら、ずいぶんと居座ってるものね。あんな見た目で、早乙女家の後継者に嫁ぐなんて、もったいない話よ」 その一言一言が、毒を塗った針のように、びっしりと夏生の胸に刺さっていく。 夏生はその場に立ち尽くしたまま、周囲の空気がどんどん薄くなっていくのを感じた。 視線と言葉の波に、今にも呑み込まれてしまいそうだった。 夏生は踵を返し、バルコニーへと向かった。 夜風はひんやりと涼しく、宴会場の中に立ち込めていた息苦しいほどの甘い香りと喧噪を、静かに吹き払っていった。 彼女はバルコニーの手すりに寄りかかり、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。 背後で、かすかな足音がした。すぐに、温かい体が近づいてくる気配がして、腰に腕が回された。 夏生の体が、こわばった。 「どうしてひとりで出てきたんだ?」 駿平の低い声が耳元で響いた。 「あの人たちの言うことなんか、気にする必要ない。ただの暇つぶしの噂話だ」 夏生は動かず、何も言わなかった。 駿平は夏生がまだすねていると思ったのか、夏生の頭に顎を軽く乗せながら、いっそう甘い声で言った。「夏生、前にも言っただろう。君はそのままでいい。周りがどう見るかなんて、気にしなくていい。俺が君を好きならそれでいいんだ」 好き? 夏生は思わず、冷笑をこぼしそうになった。 いったい何をもって「好き」だと言うのだろう。 一族への当てつけの道具としての「好き」なのか。それとも、都和への揺るぎない想いを引き立てるための添え物としての「好き」なのか。 駿平は言葉だけでは足りないと感じたのか、夏生がなおも黙っているのを見て、ふと顔を傾け、不意打ちのように夏生の首筋に唇を寄せた。 温かく柔らかな感触が伝わり、夏生の体がびくりと震え、反射的に駿平を押し返そうとした。 そのとき―― バンッ! バルコニーのガラス戸が、勢いよく開け放たれた。 都和が戸口に立っていた。引っ込め損ねた笑みが顔に残っていたが、抱き合うふたりの姿、とりわけ駿平の唇が夏生の首筋に触れているのを目にした瞬間、その笑みは凍りついたように固まった。 彼女の頬からさっと血の気が引き、瞳にはみるみる涙の膜が広がっていく。 「ご、ごめんなさい。お邪魔してしまって……」 声はわずかに震えていた。そう言うと、都和は身を翻し、逃げるようにその場を去っていった。 逃げていく後ろ姿は、どこか取り乱しているように見えた。 駿平はすかさず夏生から体を離すと、表情を明らかに変えた。 都和が消えていった方向を目で追うその瞳には、はっきりとした心配と、かすかな葛藤の色が浮かんでいた。 第5話 駿平はすぐに視線を戻し、夏生を見つめると、いつもの落ち着いた口調に戻った。「さっきのことは気にしなくていい。俺が君を好きならそれでいいんだ。ちょっと電話をかけてくる」 そう言って、駿平は慌ただしく駆け出していった。 夏生はその場に立ち尽くし、誰もいなくなった戸口を見つめた。口元を歪めてみたものの、最後には自嘲の笑みすら浮かべられなかった。 このパーティーに、もう一秒たりともいたくなかった。 夏生は踵を返し、ホテルの車寄せまで来たところで、目の前にひとつの人影が立ちはだかった。 都和だった。 目元にはまだうっすらと赤みが残っていたが、表情はすでに整えられ、どこか見下すような色を宿していた。 「あら、もうお帰り?」 都和は夏生を見つめ、柔らかな声で、しかし言葉の端々に棘を潜ませて言った。 「誕生日パーティーの主役が早々に抜け出すなんて、あまり感心しないわね。それとも、駿平が私を追いかけていったのが、面白くなかったのかしら?」 夏生は相手にする気もなく、都和を避けて通り過ぎようとした。 「待って」 都和が手を伸ばして遮った。 「ちょっと話さない?駿平のことも、あなたたちの結婚ごっこも、知っておいたほうがいいことがあると思うの」 「どいて」 夏生の声は冷たかった。 「あら、図星?自分が本来いるべき場所じゃないところにいるって、わかっているんでしょう?」 都和は引かず、一歩踏み出して夏生の手首を掴んだ。 「言っておくけど、駿平は本当は……」 「離して!」 夏生は力任せに振り払おうとした。 車寄せの脇で、ふたりはもみ合いになった。都和はハイヒールの踵が滑ったのか、小さく叫び声を上げて後ろに倒れかけ、とっさに夏生の腕にしがみついた。 その勢いに引かれ、夏生も体勢を崩した。 「きゃあ!」 耳をつんざくブレーキ音と衝突音が、ほとんど同時に響いた。 混乱の中、夏生は凄まじい衝撃に襲われ、視界がぐるりと回った。額と頬に焼けつくような激痛が走り、温かい液体があっという間に視界を滲ませていく。 すぐそばで、都和の悲鳴が聞こえた。 激しい痛みと眩暈に呑み込まれ、意識が朦朧とする中で、人々が駆け寄ってくる気配、ざわめく声、救急車のサイレンが遠くから聞こえるようだった。 朦朧とした意識の中、駿平が慌てて駆けつけてくる姿が見えた気がした。いつも冷静で凪いでいるはずの顔に、初めてはっきりとした動揺が浮かんでいた。 それから、途切れ途切れの会話が、遠くから聞こえてきた。 「早乙女さん、おふたりとも早急な処置が必要です。ただ、現在すぐに使える手術室が一室しかありません。奥様は顔に深い傷を負っていて、このまま処置が遅れれば傷跡が残る可能性があります」 医師は続けた。 「黒川さんは手に重傷を負っています。処置が遅れれば、今後、指の動きに支障が残るおそれがあります。どちらを先に……」 その時、駿平の声が聞こえた。 「都和を先にお願いします。彼女はピアニストなんです。手が動かなくなったら困る」 「では奥様は……」 「放っておけ。彼女にとって、容姿なんて重要じゃない」 重要じゃない。 その言葉が、刃物のように夏生の心臓を貫いた。 そう、醜いから、重要じゃない……! 目の前が真っ暗になり、夏生はそのまま意識を失った。 再び目を覚ましたのは、病室の中だった。 そばには誰もいなかった。 夏生は顔に触れてみた。分厚い包帯が巻かれている。 扉が開き、都和が数人の友人を連れて入ってきた。 都和の手にも包帯が巻かれていたが、顔には笑みが浮かんでいた。 「夏生」 都和はベッドの脇まで来ると、夏生を上から下まで眺めた。 「かなり酷い怪我だったそうね。顔にもかなり深い傷を負ったって聞いたから、今度こそ痕が残るかと思ったのに。早乙女家が呼んだお医者様、意外と腕がいいのね。ちゃんと治してもらえたみたい。 まあでも、治ったところで、もともとの不細工が隠せるわけじゃないけど。その分厚い包帯、あなたの前髪と眼鏡とお似合いよ。どっちも目障りなことに変わりないもの」 背後に控える男女から、くすくすと低い笑いが漏れた。 夏生は目を閉じ、彼らを見る気にもなれなかった。 「出ていって」 都和が何か言う前に、隣にいたピンクのセットアップを着た巻き髪の女が先に噛みついた。 「その態度、何様のつもり!?都和がわざわざお見舞いに来てあげたのに、出ていけですって?見た目が悪いだけかと思ったら、性根まで最低じゃない!ほんと救いようがないわね!」 夏生は目を開け、冷めた視線をその女に向け、それから都和を見た。 「その犬を連れて、出ていって。ここに、あなたたちの居場所はない」 「誰が犬ですって!?」 ピンク色の女は顔を真っ赤にして怒鳴ると、詰め寄ってきて、いきなり夏生の顔めがけて平手を振り上げた! 顔に傷を負い、身動きの取りにくい夏生は、その手が振り下ろされるのをただ見ているしかなかった。 「おいおい。病人相手に手を上げるのはよくないだろう」 花柄のシャツを着た男が、ピンク色の女を制した。年齢は27、8歳ほどか。軽薄な目つきで病床の夏生を上から下まで眺め回し、含みのある笑みを浮かべている。 「奥様、だったよな?なかなか気の強いお方だ。まあ、そういう頑固な性格を治す方法なら、俺が心得てるけどね」 男は少し進み出て、ベッドにゆっくりと近づいた。目つきは粘つくように無遠慮だった。 「あんたみたいな、見た目もぱっとしないくせに気だけは強い女は、何人も見てきたんだぞ。男に躾けられるのがお似合いってね。どんなに強情な女も、ひと晩男に抱かれれば、ちゃんと大人しくなるもんだ」 そう言うなり、男は無造作に手を伸ばし、夏生の掛け布団をめくり上げようとした! 第6話 「触らないでッ!」 夏生は鋭く叫び、痛みを堪えて逃れようとしたが、動きが一歩遅れた。 男は驚くほど力が強く、片手で夏生の肩を押さえつけ、もう片方の手で病衣の襟元を乱暴に引っ張ってはだけさせた。青白い肌と包帯が露わになる。 男はそれを見つめ、興奮と嫌悪が入り混じった目つきで言った。「へえ、体はまあまあじゃないか。顔はもういい、どうせ電気消しゃ同じだ」 「離して!誰か!」 夏生は必死にもがいた。屈辱と恐怖に、全身が震えていた。 だが傍らの都和たちは、鼻で笑う者、腕を組んで見物する者、それどころか、ピンクのセットアップの女はスマホを取り出し、動画でも撮ろうとする素振りを見せた。 絶望と怒りが、瞬時に理性を押し流した。 夏生の視界の端に、ベッド脇のガラス製の花瓶が映った。夏生はその重たい花瓶を掴み取ると、自分に覆いかぶさる男の頭めがけて、力の限り叩きつけた! ガシャッ! 鈍い音と男の悲鳴、ガラスの割れる音が同時に弾けた。 ちょうどそのとき、病室のドアが開き、消毒トレーを手にした看護師が入ってきた。 床一面に散らばったガラスと、頭から血を流す男、そしてベッドの上で衣服を乱し、顔色を失った夏生を見て、看護師の手からトレーがほとんど滑り落ちそうになった。 「大変!何があったの!?警備員!早く警備員を呼んで!警察も!すぐに通報して!」 …… 警察署では、夏生と都和側の一団が分けられて、事情聴取を受けた。 都和側は口を揃え、夏生が故意に相手を傷つけたのだと証言した。 夏生は性的暴行を受けそうになり、自衛のためにやったのだと主張した。 だが、誰も信じなかった。 そもそも、「不美人」が性的暴行を受けるなど、誰が信じるというのか。 まもなく、駿平が弁護士を伴って現れた。 署長みずから出迎えた。 「早乙女社長、この件は双方の言い分が大きく食い違っています。規定の手続きに則り、結論を出さねばなりませんが、いずれも社長のお知り合いということで、その、いかがいたしましょうか……」 駿平の視線は、まず夏生に向けられた。 乱れた襟元と、顔に貼られたガーゼの上でその視線が止まり、眉間にわずかな翳りが差した。だが駿平はすぐに視線を逸らし、静かに座っている都和へと向けた。 都和は駿平の視線を受け止めると、小さく首を振った。困り果てたような、それでいて自分も巻き込まれたのだという被害者ぶった眼差しだった。 駿平は数秒黙り込んだ。取調室の静寂は恐ろしいほどで、その一秒一秒が夏生にとっては拷問だった。 やがて駿平は口を開いた。声は低く平坦で、感情の色は微塵も読み取れなかった。 「貞行は少し無鉄砲だったかもしれない。だが強姦とは……夏生、何か誤解しているんじゃないか?貞行の周りに女は事欠かない」 夏生は大きく目を見開き、信じられないという表情で駿平を見つめた。 貞行が女に困らないから。それとも、自分が醜いから、暴行を受けるはずがないと決めつけているのか。 心が、生きたまま抉り出され踏みにじられるような痛みだった。顔の傷よりも、先ほどの恐怖よりも、その痛みは何百倍も深かった。 その後、都和側の複数の証言と、新村貞行(にいむら さだゆき)の負傷状況などを踏まえ、夏生は傷害の疑いで逮捕された。 一方、貞行は病院へ運ばれ、都和たちは事情聴取を終えると署を後にした。 夏生の脇を通り過ぎるとき、貞行は頭を押さえながら憎々しげに夏生を睨みつけた。都和はふと足を止め、首だけ振り向くと、勝ち誇ったように口角を上げ、息だけで囁いた。「ほら、駿平が誰を信じるか、はっきりしたでしょう?」 そう言い残し、都和は悠然と去っていった。 夏生は留置場へと連れていかれた。 わかっていた。都和がこの機会を逃すはずがないと。 その後、夏生の身柄は留置され、7日目になってようやく釈放された。 その7日間は、夏生にとって地獄そのものだった。 冷え切った留置場、ひどい食事、わざと絡んでくる同室者、真夜中に浴びせられる冷水、癒えぬ傷口への乱暴な扱い。あらゆる苦しみが次々と襲いかかった。 夏生は歯を食いしばって耐え抜いた。泣きも喚きもしなかった。ただ、その瞳は日に日に虚ろになり、心は日に日に硬く冷たくなっていった。 7日目、夏生は釈放された。 駿平が入口で待っていた。車に寄りかかり、指先に挟んだ煙草から立ちのぼる煙が、駿平の涼やかな目鼻立ちをかすかに霞ませていた。 夏生が出てくるのを見ると、駿平は煙草を消し、歩み寄ってきた。 「出てきたか。車に乗れ」 夏生は動かず、まっすぐに駿平を見上げた。声はかすれていた。 「……どうして?」 駿平はその問いを予期していなかったのか、一瞬言葉に詰まった。 「何がだ?」 「どうして彼らを帰したの?どうして私だけ閉じ込めたの?」 夏生の声はごく小さかったが、震えを抑え込むような激しさを孕んでいた。 「私が醜いから、都和の友達が私に何かするはずがない、そう思ったから。だから、私が嘘をついている、私がわざと人を傷つけたって、そう決めつけたのね?」 第7話 駿平は、赤く充血した夏生の瞳の奥に潜む深い絶望を見つめ、胸の奥にごくかすかな違和感がよぎったが、すぐにそれを押し流した。 駿平は口調を和らげ、道理を説くような忍耐強さで言った。 「貞行が手を出したのは確かだ。だが強姦となると、可能性は低い。あのとき現場は混乱していたし、君も怖くて何か誤解したんじゃないか。 しばらく頭を冷やさせたのは、今回のことを反省させるためでもあり、事を収めるためでもある。放っておいたわけじゃない。留置場には話を通しておいたから、酷い目には遭わせない」 話を通した? 夏生はもう少しで笑い出しそうになった。だが先に、涙のほうがこぼれ落ちた。 駿平は考えたことがあるだろうか。彼の愛する都和もまた「話を通し」、自分を生き地獄に叩き込んだということを! 夏生は唇を噛みしめた。歯の間に血の味が広がった。 その後の数日、駿平はまるでこの「道具」が機嫌を損ねるのを恐れているかのように、珍しく機嫌を取るような態度を見せた。 会員制のオークションに連れて行き、目の飛び出るような値段のダイヤモンドネックレスや、アンティークのイヤリング、名画まで次々と競り落とし、すべて夏生の名義にした。 だが夏生は、その冷たいダイヤモンドを見つめても、心はただ麻痺していくばかりだった。 オークションが終わったあと、夏生はひとりで甲板に出て風に当たっていた。 背後から、また聞き覚えのある足音が近づいてきた。 またもや、都和だった。 「駿平があんなにたくさん物を買ってくれて嬉しい?」 都和は隣に立つと、柔らかな声で、しかし目には毒を潜ませて言った。 「でもね、どれだけ高価な物をもらったところで、あなたが道具だっていう事実は変わらないでしょう。彼はあなたを使って、両親を追い詰めているだけ。 もうすぐ目的も達成しそうだし、あなたがいつまで彼のそばにいられると思う?私たちが結婚するとき、忘れずに招待状を送るわね」 夏生は聞きたくもなく、背を向けて立ち去ろうとした。 だが都和はすかさず夏生の手首を掴んだ。 「もう行くの?また図星だった?前にも本当のことを教えてあげたでしょう。駿平が愛しているのは、いつだって私。あなたはただの」 「離して!」 夏生は力任せに手を振り払った。 船尾の手すり際で、ふたりはもみ合いになった。船体がわずかに揺れた瞬間、都和のハイヒールの踵が滑り、小さな悲鳴とともに体が後ろへ傾いた。だが都和はとっさに、なおも夏生の腕を強く掴んだままだった! 「きゃあ!」 ふたりは同時にバランスを崩し、手すりを越えて、そのまま眼下の真っ暗で冷たい海へと落ちていった! 刺すように冷たい海水が、瞬時に口と鼻を呑み込んだ。強烈な衝撃と冷たさに、夏生は息が詰まった。泳げない夏生はむなしくもがき、塩辛い海水が喉の奥まで流れ込んでくる。 朦朧とする意識の中、誰かが海へ飛び込み、力強く泳いでくるのが見えた。 駿平だった。 彼は迷うことなく、必死にもがき叫ぶ都和めがけてまっすぐ泳いでいった。背後から都和の体を支え、救命ボートへと向かって泳いでいく。 一度も、夏生のほうを振り返ることなく。 刺すように冷たい海水さえ、夏生の心の底に張りつめた氷の冷たさとは比べものにならなかった。 夏生の意識が薄れかけたそのとき、たまたま通りかかった別の小型ボートが夏生を見つけ、乗り込んでいた人々が慌てて夏生を引き上げた。 夏生は甲板に倒れ込み、激しく咳き込みながら飲み込んだ海水を吐き出した。全身びしょ濡れで、寒さに震えている。 駿平はすでに都和を救命ボートに乗せ、毛布で包み、静かに声をかけていた。 そのとき、ふと何かを思い出したように顔を上げた。 その視線が夏生の姿を捉えた。最初はただ何気なく向けただけの一瞥だったが、次の瞬間、その視線がぴたりと凍りついた。 「君の顔……」駿平は呟くように言い、眉根を寄せた。 夏生の心臓が、大きく跳ねた。反射的に俯き、自分の顔に手をやる。 分厚く塗り重ねた化粧は、海水に浸り、もがくうちにすっかり剥がれ落ち、素肌が大きく露わになっていた。濡れた前髪は額に張りつき、あの黒縁眼鏡はいつの間にか失われていた。 「駿平。頭が痛いの……寒いっ」 ちょうどそのとき、都和が弱々しく呻き、駿平の胸に身を寄せ、探るような視線を遮った。 駿平はすぐさま視線を引き戻した。 「もう少し我慢してくれ。すぐに医者を呼ぶから」 駿平はもう夏生の方を見ることなく、都和を横抱きにすると、足早に船室へと向かっていった。 夏生はその背中を見つめながら、濡れた裾を握りしめた。指先が氷のように冷たかった。 結局、夏生は何も言わず、救助してくれた人々の手を借りて船に上がり、空いている部屋を見つけて身を整えた。 鏡に映るのは、醜い化粧の下に隠されていた、息を呑むほど美しい顔だった。 それは母が遺してくれたもの。そして夏生にとって、十数年間ずっと隠し続けなければならない「罪」のようなものでもあった。 着替えを済ませ、船を降りようとしたとき、スマホが鳴った。一美からだった。 「夏生」 一美の声には、隠す気もない安堵と喜びが滲んでいた。 「離婚届はもう受理されたわ。今この瞬間から、あなたは駿平とも、早乙女家とも、一切関わりがなくなるわ。あなたのお父様には、こちらから相応の補償を渡すから、今後、二度と姿を見せないでね!」 夏生はスマホを握りしめたまま、埠頭に立ち尽くした。 海風が半乾きの長い髪を揺らし、隠すもののなくなった額と、澄んでいながらもどこか冷たいその瞳をあらわにしていた。 すべてが、終わった。 夏生はタクシーを拾い、家には帰らず、そのまま郊外の霊園へ向かった。 墓石に刻まれた名前を見つめると、生前の彼女の姿が脳裏に浮かんだ。美しく穏やかな人だったが、その瞳にはいつも、どこか消えない哀しみが宿っていた。 「お母さん」 夏生は静かに口を開いた。声は風にさらわれて消えていった。 「お母さんの言った通りだった。綺麗すぎると、本当に騙されるのかもしれない。でも、醜く装ったところで、同じように徹底的に騙されたわ。 自分を隠すことは、安全をもたらしてくれるわけじゃなかった。それはただ、私を傷つける人たちをもっと図に乗らせるだけだった。だから、これからはもう隠したりしない。 この先どんなに険しい道が待っていても、これからはありのままの自分で向き合っていきたいの」 夏生は墓前で深く頭を下げると、踵を返した。その後ろ姿には迷いがなかった。 屋敷に戻ると、夏生は誰にも気づかれないまま、まっすぐ2階の寝室へ向かった。 そこで、三つのことを済ませた。 一つ目は、荷物をすべてまとめること。 二つ目は、化粧をすべて落とすこと。湯気の向こうの鏡には、やがて息を呑むほど美しい素顔がはっきりと映し出された。 三つ目は、スマホで一番早く出る便のチケットを取ることだった。 タクシーで空港へ向かい、搭乗券を受け取り、保安検査を抜け、搭乗を待ち、機内へ乗り込んだ。 その間ずっと、夏生はわずかに俯いていたが、その化粧っ気のない、それでいて息を呑むほど美しい顔は、道行く人々の驚嘆と好奇の眼差しを、時には盗撮のカメラさえも次々と引き寄せていった。 夏生はそれに気づいていなかった。あるいは、もう気にも留めていなかった。 飛行機は空高く舞い上がり、夏生のすべての苦しみと欺瞞を刻みつけたこの街を、遥か後方へと置き去りにしていった。 夏生が知らないうちに、搭乗から間もなく空港で撮影された写真の数々が、驚くべき速さでトレンド入りを果たし、瞬く間に拡散していった。 #空港に現れたすっぴん美女! #こんな美貌って実在するの!? #3分でいいからこの女神の正体が知りたい! #この美貌の前じゃ財界No.1美女・黒川都和もただの引き立て役! たちまち写真は拡散し、ネット中がこの息を呑むほど美しい女性の正体を追い始めた。 まもなく、その身元が少しずつ暴かれていく。

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