第1章
大学受験をすべて終えた日、四人の幼なじみに誘われて、「真実か挑戦か」ゲームをすることになった。
私の番が回ってくると、つい最近、名家の実の娘だと判明して家に戻ってきた雨宮雛乃(あまみや ひなの)が、みんなに「第一志望を公開する勇気はある?」と持ちかけた。
四人が順番に見せた志望校は、全員そろって北嶺大学だった。
榎本朔臣(えのもと さくおみ)は志望校を書いた用紙を私の前に押し出すと、笑いながら、全国でもトップクラスだった私の模試の成績を指先で軽く叩いた。「首都圏の最難関大に受かっても蹴って、俺たちと一緒に北嶺へ行けるか?あとから心変わりしたやつは負け犬な」
その夜、私は彼らが見ている前で、国立先端エネルギー研究機構の特別研究員選抜に伴う早期受入同意書に署名した。
そして朔臣も、みんなに囃し立てられるなか、私の告白を受け入れてくれた。
ところが後日、選考結果が届いた頃、私は四人に会おうと、彼らが集まっている家を訪ね、リビングのプロジェクターがつけっぱなしになっていることに気づいた。
スクリーンに映し出されていたのは、私の知らない「雛乃を守る会」というグループチャットだった。
【透花、もうサインした?】
【した。嘘の志望校を書いた紙四枚だけで、向こうから北嶺に行くって決めてくれたんだから、こっちとしては大成功だろ】
【やっぱ雛乃はすごいな。ゲーム一回で、あの金魚のフンを追い払えたんだから】
【一番犠牲が大きいのは朔臣だろ。研究所に入るまで、透花と付き合ってるふりまでしなきゃならないんだから】
私はスクリーンの前に立ち尽くした。
そのとき、背後で玄関のドアが開く音がした。
振り返ると、朔臣、楡井岳(にれい がく)、柊木理玖(ひいらぎ りく)、椎葉奏多(しいば かなた)、そして雛乃が、首都圏の難関大学への合格祝いのシャンパンを手に立っていた。
私と目が合った瞬間、五人は揃ってその場で凍りついた。
第1話
最初に平静を取り戻したのは、朔臣だった。
「見られた以上、もう隠すつもりはない。雛乃はようやく実の家族のもとへ戻れたばかりなんだ。そんな矢先に家族と離れて、遠い北嶺で暮らすのは無理だろ。
でも、透花は昔からたくましいし、一人でもどこでだってやっていけるさ」
雛乃が目を赤くしながら、朔臣の服を引っ張った。
私は泣かなかった。ただ、スクリーンに映ったチャットの履歴を指さした。「偽物の志望校記入用紙を作ったのは誰?」
朔臣はあっさり認めた。「俺だ」
「『真実か挑戦か』ゲームをやろうって言い出したのは?」
雛乃の目がわずかに泳いだ。
すると岳がすぐに彼女の前へ出て、庇うように立った。「みんなで考えたことだ。雛乃だけを責めるなよ」
私は頷き、もう一度朔臣を見た。「昨日の夜、私と付き合うって言ったのも、計画のうちだった?」
朔臣の喉仏が小さく動いた。「お前は遠距離恋愛はしないって言ってただろ。俺が付き合うって言わなきゃ、お前は同意書にサインするわけがなかった」
その口調はあまりにも当然のようで、罪悪感などほとんど抱いていないように聞こえた。
雛乃は目を潤ませると、突然、理玖の手からスマホを奪い取った。「全部私のせいだから、今から進学先を変える。私が透花と一緒に北嶺へ行くから、みんなは白凪市に残って」
四人が同時に彼女を取り囲み、奏多がその手からスマホを取り上げた。「もう合格通知まで届いてるのに、今さら何を変えるんだよ」
「でも、透花はどうするの?」雛乃は肩を震わせながら泣いた。「一人であんな遠いところへ行ったら、きっとつらい思いをするよ」
朔臣はティッシュを取り出し、彼女の涙を拭ってやった。「透花は昔から自立してる。どこへ行ったってちゃんとやっていけるよ。お前は体も丈夫じゃないし、白凪市を離れて暮らしたこともないんだから、意地になって自分の将来を棒に振るような真似はするな」
私は数歩離れたところに立ち、四人が雛乃を慰める姿を眺めていた。
――そうか。これが答えだったんだ。
北嶺での暮らしが雛乃に向いていないからではない。
彼らは雛乃に苦労をさせるのが嫌で、その代わりに私を差し出すことなら平気だった。それだけのことだった。
理玖は眼鏡を押し上げ、いつもと変わらない冷静な口調で言った。
「透花、確かにやり方は褒められたものじゃなかった。でも結果だけを見れば、みんなにとって一番いい選択になっただろ。
君は自分に一番合った国立先端エネルギー研究機構へ行き、僕たちは雛乃と一緒に白凪市に残る。これなら誰も将来を犠牲にせずに済む」
私は笑った。「じゃあ、みんなにお礼を言わなきゃね?」
岳は私の皮肉に気づいたのか、顔を曇らせた。「お前だって北嶺に行きたかったんだろ?そうじゃなきゃ、研究機構から何度も声をかけられたときに、どうしてきっぱり断らなかったんだよ。俺たちはただ、お前が決心するのを手伝っただけだ」
確かに、私は行きたかった。
北嶺で進められているのは、幼い頃からずっと私が夢見てきた分野の研究だった。
それでも四人と離れたくなくて、私は二度も誘いを断った。夢見てきた研究分野を諦めてでも、彼らと一緒に白凪市に残ろうとさえ考えていた。
けれど、もうそんなことを話す必要はなかった。
私はテーブルの上に置かれていた選考結果を手に取った。
朔臣が反射的に私を引き止める。「どこに行くんだ?」
「家に帰る」
「じゃあ、俺たちは?」
私は彼を見た。「私たちって?」
朔臣の表情が強張った。
「透花、腹が立ってるからってそんなこと言うなよ。お前と付き合うって答えたのは、同意書にサインさせるためだった。
でも、全部が嘘だったわけじゃない。研究所に入るまでは一緒にいるし、そのあとだって時間があれば会いに行く。お前が欲しかったものは、もう手に入っただろ?」
彼にとっては、私としばらく付き合ってやることが、十分すぎるほどの見返りだったらしい。
雛乃が小さな声で取りなすように言った。「透花、朔臣は本当にあなたのことを大切に思ってるよ。昨日の夜だって、透花が寝たあと、毛布を掛けてあげてたし……」
思わず笑いそうになった。
私を騙して、簡単には撤回できない同意書にサインさせたあとで、毛布を一枚掛けてくれた。
そう考えれば、確かに得をしたのは私のほうなのかもしれない。
「じゃあ、あなたたちはずっと一緒にいればいいよ」
私は幼い頃から身につけていた水晶のお守りを外し、雛乃の前に置いた。「私たちの子供の頃の思い出が欲しかったんでしょう?これもあげる」
雛乃は受け取ろうとしなかった。
朔臣の眉間の皺がますます深くなる。「今日のお前、本当にどうしたんだよ?前はいつも、俺たち五人は一生離れないって言ってただろ?」
「昔は昔だよ」
そう言い残し、私は背を向けた。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
国立先端エネルギー研究機構の担当者からメッセージが届いていた。
【迎えの車両は48時間後に白凪市へ到着します。
冬月透花(ふゆつき とうか)さん、以下のリンクより、研究プロジェクトへの早期参加の可否をご回答ください。】
私は【参加する】を押した。
プロジェクトには厳格な守秘義務が課されている。北嶺特別研究基地に入れば、携帯電話などの通信機器はすべて預けることになり、個人的な連絡も制限される。
しばらくの間、誰も私を見つけることはできない。
私は画面を閉じ、18年間ずっと一緒に育ってきた五人で使っているグループチャットを通知オフにした。
彼らはきっと、今回も今までと同じだと思っている。
私が怒って、泣いて、それでも最後には何事もなかったように、また素直に彼らのもとへ戻ってくるのだと。
でも、今度だけは違う。
私は本当に、もう彼らなんていらないと思った。
第2話
出発する前に、彼らから預かっていたものを返しておこうと思った。
岳が12歳のとき、初めてバスケの大会でもらったメダルを私に押しつけ、「なくしそうだから、透花が預かってて」と言った。
私はそのメダルを手に、体育館へ岳を探しに行った。
彼は床にしゃがみ込み、雛乃が学生寮で使うハンガーラックを組み立てていた。そばにはマットレスやデスクライト、収納ボックスが山のように積まれている。
「これ、もう少し低くして」雛乃が高さを確かめながら言った。「私じゃ届かないよ」
すると岳はすぐにいったん分解して、組み立て直し始めた。
私に気づくと、何気ない口調で尋ねる。「何しに来たんだ?」
私はメダルを差し出した。「返しに来た」
岳は一瞬きょとんとした。「お前が持ってればいいだろ?なんで急に返すんだよ」
「この先、返す機会がなくなるかもしれないから」
彼はその意味に気づくこともなく、メダルを雑用品でいっぱいの段ボール箱へ無造作に放り込んだ。「ちょうどいいや。雛乃の寮で使うもの、まだ足りてないんだ。お前、力あるだろ。こっち来て手伝ってくれ」
私は動かなかった。
雛乃が慌てて口を挟む。「大丈夫だよ。透花は北嶺に行くんだし、きっと荷造りで忙しいから」
岳は私をちらりと見た。「こいつ、昔から出かける準備なんて10分で終わらせるだろ。何が忙しいんだよ」
私はそのまま背を向けた。
彼は追いかけてもこなかったし、私がいつ出発するのかと尋ねることさえしなかった。
……
理玖は図書館にいた。
私は彼がうちに預けていた、コンテスト用の研究原稿を数部返した。
彼はそれを受け取ると、椅子の背もたれに掛けてあったカメラバッグに目を留めた。
その中には私が15歳のときに1年間お小遣いを貯めて買ったカメラとメモリカードが入っていた。
私たち五人の高校生活は、ほとんどすべてその中に残されている。
「カメラも置いていって」理玖が言った。「雛乃が成長記録のムービーを作って、大学の新入生歓迎イベントで流したいらしい」
「これは私のものだけど」
「ちょっと借りるだけだよ。返さないわけじゃない」
彼は雛乃を手招きした。
雛乃がこちらへやって来て、物欲しそうにカメラバッグを見つめる。「透花、みんなの昔の写真を何枚か選びたいだけなの」
「でも、私たちの子供時代に雛乃はいなかったよ」
雛乃の顔がさっと青ざめた。
理玖が咎めるような目を私に向ける。「そんな言い方をする必要がある?雛乃はただ、もっと早く僕たちと知り合えなかったことを残念に思ってるだけだ」
「だから私の過去を持っていって、その穴埋めをするの?」
理玖はとうとう苛立ったのか、カメラバッグへ手を伸ばした。「数日借りるだけだろ。大げさにするなよ」
けれど私は、彼が持ち上げるより先にカメラバッグを取り戻し、そのまま肩に掛けた。「貸さない」
理玖が眉をひそめる。「透花」
「写真が欲しいなら、自分たちが持ってるものを使えばいいでしょ。このカメラは私のものだから、誰にも貸さない」
雛乃は唇を噛み、寂しそうに目を伏せた。「……分かった。無理に借りるつもりはないよ」
理玖はまだ何か言いたそうだったが、私はそれ以上取り合わなかった。
カメラバッグをしっかり抱え直し、そのまま二人の前を離れた。
……
奏多には、官舎街の入口で呼び止められた。
「ちょうどよかった」
彼はポータブルSSDを私の胸元へ放り投げた。「この中に、俺たちが持ってる動画は全部入ってる。お前、編集得意だろ?雛乃の18歳の記念ムービーを作ってやってくれ」
「雛乃には18年分の素材なんてないでしょ」
「だから俺たちのを使うんだよ」奏多はさも当然のように言った。「お前が映ってて都合の悪いところはカットして、代わりに雛乃の写真を何枚か入れれば、それで完成だろ?」
私は手の中のSSDに目を落とした。
そこには、私たちが初めて自転車に乗ったときの動画も、初めてキャンプへ行ったときの動画も、四人が祝ってくれた私の誕生日も、すべて残されていた。
それを今、彼らは私だけ切り取ろうとしている。
私の代わりに雛乃をそこへ入れて、まるで彼女が最初から自分たちと一緒に育ってきたかのような、偽りの思い出を作るために。
「いいよ」私はSSDを受け取った。
逆に奏多のほうが面食らったようだった。「ずいぶんあっさり引き受けるんだな?」
「言ってたでしょ。私なんて、せいぜい2日も拗ねてれば元に戻るって」
彼は気まずそうに鼻をこすった。「分かってくれたならいいんだ」
最初から最後まで、私がいつ北嶺へ行くのかと尋ねた人は一人もいなかった。
夜になると、朔臣がデートに誘いに来た。
連れて行かれたのは、私たちがよく通っていたしゃぶしゃぶ店だった。けれど彼はずっと俯いたまま、スマホでメッセージを返していた。
雛乃が「買ったマットレスが硬すぎる」と言えば、すぐに店へ連絡して交換を手配する。
今度は「ルームメイトとうまくやっていけるか不安」と言われれば、長いボイスメッセージを何本も送って彼女を宥めていた。
私の前の牛肉が煮えすぎてすっかり硬くなっていることにさえ、彼は気づかなかった。
「朔臣」
「ん?」
「明日、私が何をするか覚えてる?」
ようやく彼が顔を上げた。「荷造り?」
「まあ、そんなところ」
彼はほっとしたように息をつくと、食後に頼んでいたわらび餅を私の前へ押しやった。「そんな不機嫌な顔するなよ。北嶺に行ったら、向こうでちゃんとやれ。会いに行くって約束したんだから、破ったりしない」
店を出るとき、彼は俯いて私の額に軽くキスをした。「いい子で出発まで待ってろ。しばらくしたら、俺たち五人で北嶺まで会いに行くから」
私は何も言わなかった。
その嘘を暴くこともしなかった。
家に帰ると、私はポータブルSSDをパソコンにつなぎ、そこに入っていた動画から、私に関わるものをすべて削除した。
私の18年間を、どうして雛乃の人生を飾るために差し出さなければならないのだろう。
SSDを抜き、宅配便の箱に入れた。
これが、私から彼らへ贈る最後のプレゼント。
私という存在だけをきれいさっぱり消し去った、彼らの「過去」だった。
第3話
翌朝7時、私は最後に残っていた書類を受け取るため、学校へ戻った。
校舎に入った途端、背後から嘲るような笑い声が聞こえてきた。
「ほら、全国トップクラスの秀才様がおいでになったよ」
「この子、もともとは榎本朔臣と一緒に白凪市に残るつもりだったんでしょ?なのにあの四人は全員、首都圏の難関大に進学することになって、自分だけ北嶺に行く羽目になったんだって」
「行く羽目になったっていうより、必死にすがったのに相手にされなくて、自分から惨めに逃げていくだけじゃない?」
数人の女子が階段の前を塞いでいた。
先頭に立っているのは、雛乃がつい最近知り合ったばかりの友人だった。
彼女は私を上から下まで眺め回すと、突然、首から下げていたカメラに手を伸ばして引っ張った。「これが、雛乃に貸してあげなかったやつ?」
私は彼女の手を押さえた。「離して」
「何ムキになってるの?」彼女はわざと声を張り上げた。「雛乃の言ったとおりじゃん。男四人と幼なじみだからって、本当に自分をお姫様か何かだと思ってるんでしょ」
すぐに隣の女子が口を挟む。
「残念だったわ。今じゃみんな雛乃のほうを選んでるけどね」
「しかも、どこかの誰かさんは恥ずかしげもなく自分から告白して、たった1日で振られたんでしょ?ウケる」
周囲には次第に野次馬が集まってきた。
私は顔を上げ、廊下の向こう側を見た。
そこには朔臣たちがいた。
岳は雛乃の書類を抱え、理玖は彼女のために提出書類を確認し、奏多は彼女の朝食を持っている。
朔臣も私に気づいた。
けれど、眉をひそめただけで、こちらへ来ようとはしなかった。
以前、学校で「冬月透花は四人の幼なじみを後ろ盾にして威張っている」と言った生徒がいたとき、朔臣はその生徒を放送室まで連れていき、全校生徒の前で謝罪させた。
それなのに今、私は大勢に囲まれ、カメラまで掴まれているというのに、彼はまるで何も見えていないかのようだった。
雛乃が小走りでやって来て、私の腕を掴んだ。「みんな、やめて。透花はただ、今ちょっと機嫌が悪いだけだから」
カメラを掴んでいる女子が鼻で笑った。「雛乃は優しすぎるんだよ。この子、雛乃にみんなが付き添ってくれるのが妬ましくて、子供の頃の動画を何本か貸すことすら嫌がってるんでしょ?なのにまだ庇ってあげるの?」
雛乃の目がたちまち赤くなった。
ようやく朔臣がこちらへ歩いてきた。
けれど彼がしたのは、雛乃を自分の背後へ庇うことだった。「透花、不満があるなら俺たちに言え。雛乃に当たるな」
私が口を開くより先に、背後にいた女子がカメラのストラップを勢いよく引っ張った。
カメラが床に落ちる。
さらに別の女子が「うっかり」掃除用のバケツを倒し、私は汚れた水を全身に浴びせられた。
一斉に笑い声が上がった。
「ごめーん、手が滑っちゃった」
私は顔についた水を拭い、腰を屈めてカメラを拾った。
朔臣は私を一瞥すると、苛立たしげに言った。「服が濡れたなら帰って着替えろよ。学校で騒ぎを起こすな」
そうか。
彼女たちが大勢の前で私を辱めるのは、ただの「手が滑った」で済む。
でも私が追及すれば、「騒ぎを起こした」ことになるらしい。
私はもう彼らを見ることなく、書類を受け取ると学校を出た。
30分後、着替えを済ませたばかりのところで、突然、家のドアが激しく叩かれた。
四人の幼なじみが雛乃を連れ、そのまま家の中へ入ってきた。
「水晶のお守りは?」岳がいきなり本題を切り出した。「さっきまで雛乃が身につけてたのに、気づいたらなくなってた」
私はドアにもたれたまま答えた。「それで?」
奏多が冷たい顔で言う。「学校で雛乃に触れたのはお前だけだ。お前以外、誰が持っていくんだよ」
そう言うなり、彼はまっすぐ私の部屋へ入り、引き出しを開けた。
ほかの三人も、クローゼットや机を勝手に探し始める。
18年間ずっと一緒に育ってきた彼らは、私の部屋に入るときにノックをしたことなど一度もなかった。
昔の私は、それを親しさの証だと思っていた。
でも今なら分かる。
彼らはただ、私のものなら何でも自分たちの好きにしていいと、最初から決めつけていただけだった。
岳がクローゼットを開け、中に数着の服しか残っていないことに気づいた。「なんで荷造りしてるんだ?」
胸の奥がわずかにざわついた。
すると理玖がスーツケースを一瞥し、私の代わりに答えた。「僕たちへの当てつけだろ」
奏多が鼻で笑う。「透花、お前もう何歳だよ。まだ家出ごっこなんてするのか?」
彼らは気楽そうに笑っていた。
私が本当にここを去ろうとしているなど、誰一人考えもしなかった。
朔臣は私の早期受入同意書を見つけたが、表紙をちらりと見ただけで、無造作に机の下へ放り込んだ。「北嶺に行くにしたって、まだ先の話だろ。まさか今日いきなり消えるわけでもあるまいし」
そのとき、雛乃の服の裾が机の角に引っかかり、水晶のお守りが机の隙間に落ちた。
彼女はそれを拾い上げた。「あった!」
雛乃自身で落としていただけだった。
雛乃は顔を赤らめ、私を見た。「透花、ごめんね。私の勘違いだった」
けれど朔臣は、雛乃の髪を優しく撫でただけだった。「見つかったならいい。もう泣くな」
私に謝るべきだと考える人は、一人もいなかった。
やがて雛乃は、パソコンに保存されていた動画ファイルに気づいた。
私たちが10歳のときにタイムカプセルを埋めた日の映像、15歳で海へ行ったときの映像、そしてこれまで毎年の誕生日に撮った映像。
「完全版はここにあったんだ」雛乃の目が輝いた。「これ、私の18歳の記念ムービーに使ってもいい?」
「ダメ」私は前へ出て、パソコンを閉じた。
雛乃の目から、たちまち光が消えた。
岳が私の前に立ちはだかる。「見るくらいいいだろ?お前、ムービーを編集してやるって約束したじゃないか」
「気が変わった」
その瞬間、雛乃の目から涙がこぼれ落ちた。「透花は……私なんか、永遠にみんなの友達になる資格がないって思ってるの?」
朔臣の顔が険しくなり、私からマウスを奪い取った。「雛乃が動画を欲しがってるんだ。お前が映るのが嫌なら、自分が映ってるところだけ消せばいいだろ」
「朔臣、触らないで」
彼は私の言葉を無視し、私の名前がついたファイルをすべて選択した。
止めようと手を伸ばした瞬間、奏多に腕を強く掴まれた。「たかが動画数本だろ。命まで取られるわけじゃあるまいし」
次の瞬間、朔臣が削除キーを押した。
ゴミ箱に移したあと、そのまま完全に削除した。
初めて自転車に乗れた日の映像。
初めてコンテストで賞を取った日の映像。
そして16歳のとき、朔臣がカメラに向かって「将来は絶対に透花と結婚する」と言った映像。
そのすべてが、彼自身の手で完全に削除された。
「これでいいだろ?」朔臣はマウスから手を離すと、冷たい顔で言った。「これから作る雛乃の記念ムービーに、お前が映ることはもうない」
彼はただ、私を怒らせたかっただけなのだろう。
でも彼は知らない。
その言葉が、もうすぐ本当になることを。
国立先端エネルギー研究機構の担当者からメッセージが届いた。
【迎えの車は明朝7時に到着します。】
私はパソコンを閉じ、スーツケースのファスナーを最後まで引いた。
18年という歳月は、詰めてしまえば、たった一つの大型スーツケースに収まる程度のものだった。
第4話
早朝、国立先端エネルギー研究機構の黒い送迎車が、官舎街の外に停まった。
両親はまだ海外の研究プロジェクトに参加していたため、ビデオ通話越しに私を見送ることしかできなかった。
母は目を真っ赤にしていた。「本当に、私たちは帰らなくていいの?」
「基地には家族が付き添えないから」
父も隣で必死に涙を堪えていた。「向こうに着いたら、自分のことはちゃんと大事にするんだぞ。誰かに嫌なことをされたら指導員に言え。何でも一人で抱え込むんじゃない」
鼻の奥がつんとした。
少なくとも、私がいなくなることを寂しがってくれる人はいる。
朔臣たちについては――
昨夜も彼らは雛乃の家で、「白凪残留五人組」の合格祝いの飾りつけをしていた。
グループチャットには、一晩中メッセージが流れ続けていた。
岳は、壁一面を埋め尽くす風船の写真を送ってきた。【透花、お前が一番センスいいんだから、早く来て何とかしてくれ】
その下に理玖が返信する。【まだ拗ねてるんだ。甘やかすなよ】
奏多は、五人をかたどったデコレーションケーキの写真を送ってきた。【北嶺に行って2日もすれば機嫌も直るだろ。そのときに生中継で見せてやればいい】
私は何も返さなかった。
研究機構の担当者が、私の荷物をトランクに積んでくれた。
「冬月さん、車に乗った時点から機密保持の手続きに入ります。個人の携帯電話はお預かりします。SNSを含め、外部との連絡も一時的にできなくなりますが、今のうちに連絡しておきたい人はいますか?」
「いません」
私は車に乗り込んだ。
そのとき、スマホに突然グループチャットの通知が表示された。
雛乃がグループ名を【いつもの五人】から【白凪残留五人組】に変更したのだ。
続けて、彼女からスクリーンショットが送られてきた。
グループ内での私の表示名は、もともと【お姫様】だった。
それが今では、【北嶺のネット友達】に変えられている。
雛乃は口元を押さえて笑うスタンプを送ってきた。【適当に変えちゃったんだけど、透花、怒らないよね?】
岳がすぐに返信した。【怒るってんなら、北嶺から這って戻ってきて自分で直せばいい】
奏多からは、笑い声のメッセージが立て続けに送られてきた。
理玖は何も言わなかったが、そのメッセージに「いいね」のリアクションをつけた。
最後に朔臣が返信した。【透花に似合ってる】
私は画面を見つめていた。
けれど不思議なことに、もうそれほど悲しくはなかった。
彼らは知らない。
あと10分もすれば、私は「北嶺のネット友達」ですらなくなる。
私はグループチャットから退出すると、四人とのトークルームを一つずつ削除した。
朔臣の番になったときだけ、指が少しの間止まった。
ちょうどその瞬間、彼からメッセージが届いた。【もう拗ねるなよ。夜は雛乃のお祝いに来い。ついでに動画が入っているSSDも持ってきて】
命令するような口調だった。
彼は今でも、呼びさえすれば私が必ず来ると信じ切っている。
私は返信せず、そのままトークルームを削除した。
職員から端末保管用の袋を渡された。
「携帯電話の電源を切って、この中に入れてください。
プロジェクト期間中は、許可なく外部と連絡を取ることはできません。また、外部から冬月さんの所在について問い合わせがあっても、情報を開示することはできません」
私は電源ボタンを押した。
画面が暗くなった瞬間、これまでの18年間の生活と私をつないでいた最後の糸が、完全に断ち切られた。
黒い送迎車がゆっくりと官舎街を離れていく。
車窓の向こうを、私たちと一緒に育ってきたあの梨の木が一瞬で通り過ぎた。
車が高速道路へ入る料金所に着いたとき、ポケットの中にまだ一つだけ残っているものに気づいた。
幼い頃からずっと身につけてきた、あの水晶のお守りだった。
昨日、私はこれを雛乃にあげると言った。
けれど彼女は、そこに私の名前が刻まれているのが気に入らなかったらしく、昨日一度は身につけてみたものの、結局そのまま私の部屋に置いていった。
18年間も一緒にいたというのに、最後までまともな別れの言葉さえ交わさなかった。
料金所のバーがゆっくりと上がり、車はその先でいったん停車した。
担当者が念を押した。「ここを越えれば正式にプロジェクト参加扱いになります。もう引き返せませんよ」
車が停まると、私は窓を開けた。
早朝の風が車内へ吹き込み、髪を乱していく。
手のひらを開き、水晶のお守りを最後に一度だけ見つめた。
そして、手を離した。
水晶のお守りは料金所脇のコンクリート台へ落ち、澄んだ音を立てた。水晶の表面に細いひびが走った。
黒い送迎車は走り出した。
そのまま白凪市を離れ、遥か彼方の北嶺へと私を運んでいった。
私は一度も振り返らなかった。