俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?

プロモーションを読み込み中...

俺の料理を食うくせに、料理人の匂いが嫌だと?

GoodNovel 完結

幼なじみだからという理由だけで、俺・高橋樹(たかはし いつき)は20年もの間、桐谷清香(きりたに さやか)のそばにいた。 周りから見れば、俺は昔から変わらない厄介者だった。何をしても清香について回って、毎日のように彼女を困らせていた。 けれど、清香が新しい車を買った日を境に、俺は人が変わったように大人しくなった。 わがままも言わない。無理に構ってほしいとも言わない。 まるで、最初からそこにいなかったかのように。 そんな俺を見て、清香のほうが戸惑っているようだった。 その夜。 雨の中、遅い時間になってからアパートに帰ってきた清香は、珍しく穏やかな口調で俺に話しかけてきた。 「今日、車に乗せなかったのは……怜司が、そういう匂いが苦手だからなの。 あなたが悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ、怜司はちょっと潔癖なところがあって。厨房の匂いが服についてるのが、どうしても気になるみたい。 雨もそんなに降ってなかったから、先に怜司を送ってきただけ。だから……もう怒ってないでしょ?」 結局、また白石怜司(しらいし れいじ)のためだった。 少しでも匂いがすると嫌がる、あの潔癖症の男のために。 俺は小さく笑った。 「別に。気にしてないよ」 どうせ3日後には、俺はフランスへ行く。 ル・コルドン・ブルーで料理を学ぶために。 そうなれば、もう清香に俺の匂いを気にさせることもない。 俺だって、もう清香のために何かを我慢する必要はなくなる。

チャプター (1)

第1章

幼なじみだからという理由だけで、俺・高橋樹(たかはし いつき)は20年もの間、桐谷清香(きりたに さやか)のそばにいた。 周りから見れば、俺は昔から変わらない厄介者だった。何をしても清香について回って、毎日のように彼女を困らせていた。 けれど、清香が新しい車を買った日を境に、俺は人が変わったように大人しくなった。 わがままも言わない。無理に構ってほしいとも言わない。 まるで、最初からそこにいなかったかのように。 そんな俺を見て、清香のほうが戸惑っているようだった。 その夜。 雨の中、遅い時間になってからアパートに帰ってきた清香は、珍しく穏やかな口調で俺に話しかけてきた。 「今日、車に乗せなかったのは……怜司が、そういう匂いが苦手だからなの。 あなたが悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ、怜司はちょっと潔癖なところがあって。厨房の匂いが服についてるのが、どうしても気になるみたい。 雨もそんなに降ってなかったから、先に怜司を送ってきただけ。だから……もう怒ってないでしょ?」 結局、また白石怜司(しらいし れいじ)のためだった。 少しでも匂いがすると嫌がる、あの潔癖症の男のために。 俺は小さく笑った。 「別に。気にしてないよ」 どうせ3日後には、俺はフランスへ行く。 ル・コルドン・ブルーで料理を学ぶために。 そうなれば、もう清香に俺の匂いを気にさせることもない。 俺だって、もう清香のために何かを我慢する必要はなくなる。 第1章 玄関に立った清香は、わずかに眉をひそめていた。 きっと、俺がいつものように食ってかかって、また大喧嘩になると思っているのだろう。 無理もない。 この20年間、清香の前に男が現れるたび、俺は決まって大騒ぎしてきた。 しかも今日は、清香がポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。 3か月もの間、俺は清香と一緒にインスタントラーメンをすすりながら、何十枚もの企画書を整理するのを手伝ってきた。 その甲斐あって、清香はようやく、新車を現金一括で買えるほどの大きな仕事をものにした。 なのに、納車された車のキーを受け取った清香が、真っ先に助手席へ乗せたのは怜司だった。 俺はというと、店の前に一人、置いてきぼりにされた。 「……本当に、何とも思ってないの?」 清香はスリッパに履き替えると、俺のところまでやってきて、探るように顔を覗き込んだ。 俺は顔を上げなかった。 スーツケースを開いたまま、黙々と服を畳んでいく。 「別に。白石は体が弱いんだろ。清香が気を遣うのは当然じゃないか」 その言葉を聞いた途端、清香の眉間に刻まれたしわが、さらに深くなった。 俺が畳んでいた服に手を伸ばしたかと思うと、その手を乱暴に押さえつける。 「……何、その言い方。 怜司は潔癖なだけじゃない。喘息だってひどいのよ。あなたの店、確かに匂いが強すぎるでしょう。あんなところにいたら、発作を起こすことだってあるんだから。 それでも気が済まないっていうなら、明日、前から欲しがってた限定スニーカーを買いに行こう。……それでいい?」 スニーカー? 俺は、苛立ちを隠しきれない清香の顔を見つめた。 その瞬間、なぜか少しだけ可笑しくなった。 あのスニーカーは、先月からずっと欲しかった。 でも、俺は清香の納車祝いを買うために、ずっとお金を貯めていた。 だから、自分のために買う気にはなれなかった。 そのくせ清香は、怜司と初めて会ったときの贈り物に、十数万円もする高級腕時計を選んでいた。 「いらないよ。靴ならもう持ってる」 俺は清香の手をそっと払いのけ、最後のセーターをスーツケースにしまった。 そこで初めて、清香は床に置かれたスーツケースに気づいた。 その瞬間、彼女の目からすっと光が消えた。 「高橋樹……また出ていくつもり?」 ああ。 またこの感じ。彼女は怒るたびに、決まって俺のことをフルネームで呼ぶ。 「ちょっと言うことを聞かないだけで、すぐ『死んでやる』だの何だの言って、荷物をまとめて実家に帰るでしょう。 もう25歳なんだから、子供じゃないでしょう?もう少し大人になれないの?」 俺はスーツケースのファスナーを閉め、ゆっくりと立ち上がった。 そして、清香の目をまっすぐ見た。 「怒ってるわけじゃない。ただ、季節が変わるから、服をクリーニングに出そうと思ってるだけだ」 清香は一瞬、不意をつかれたような顔で固まった。 やがて、苛立たしそうに髪を指先で弄びながら、また声を落ち着かせる。 「……とにかく。今日は、雨の中にあなたを置いて帰った私が悪かった。 それに、朝からずっと胃が痛いの。ラーメン作ってくれない?卵、二つくらい入れて」 清香は、いつものように俺に頼む。 どうせ俺が心配して、すぐに台所へ向かうと思っているのだろう。 俺は、胃のあたりを押さえている彼女の手を黙って見つめた。 けれど、頭に浮かんだのは――今日の午後に起きた、あの出来事だった。 第2章 インスタに上がっていた、清香が怜司に「いいね」をつけていたフレンチのコース料理の写真が、ふと頭をよぎった。 「キッチンにはもう何もないから、適当にデリバリーでも頼んで」 そう言い残して、俺はスーツケースを引きながら寝室へ向かった。 そのとき、清香に手首をつかまれた。 「樹、ちょっと待って」 思わず振り返る。 手首に食い込む指が痛い。あまりの強さに、赤い跡がくっきりと残った。 「私があれだけ謝って、機嫌を取ってあげたのに……まだそんな態度を取るつもり?」 俺は痛みに耐えながら、反射的に手を引こうとした。 すると清香の視線が、俺の右腕に止まった。 そこには、今も消えずに残っている火傷の痕がある。 清香の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。 そして、ゆっくりと俺の手首から手を離した。 この傷を負ったのは、18歳のときだった。 清香の実家で突然火事が起きた。 俺は何も考えずに火の中へ飛び込み、清香を外まで連れ出した。そのときに負った火傷だった。 その傷のせいで、俺は飛行士になる夢を諦めた。 代わりに手にしたのは、操縦桿ではなく包丁だった。 母が残してくれた、古びた小さな料理屋を継いだ。 あの頃の清香は、全身血だらけになった俺を抱きしめて、泣きながら言った。 ――一生、私が面倒を見るから。 あの言葉を、俺はずっと信じていた。 なのに今の清香にとって、俺の体に染みついた店の匂いは、怜司にとって不快なものらしい。 「別に怒ってないよ。本当に疲れただけ」 俺は赤くなった手首をさすりながら、淡々と答えた。 清香は何も言わず、しばらく俺を見つめていた。 やがて、ふっと鼻で笑う。 「そう。まだ意地を張るってことね。だったら明日、あの店を誰かに売るから。 どうせ怜司は、あの通りを通るたびに鼻をつまんでるんだもの。あんな店、前から閉めてやろうと思ってたの」 俺は足を止めた。 ゆっくりと振り返る。 「……何言ってるんだ? あの店は、母さんが俺に残してくれた唯一のものだ。勝手に売るなんて、そんなこと許されるわけないだろ」 ようやく俺の顔に感情が浮かんだ。 それを見た清香の目に、ほんの少しだけ満足そうな色が浮かぶ。 「できるわよ。だって、今は私の名義になってるんだから。 ねぇ、もういいでしょう?店なんか閉めて、うちの会社で働けばいいじゃない。総務の仕事なら、そんなに汚れないし。毎日きれいな格好でいられるでしょう? 毎日あんな場所にいて、服も体も油の匂いが染みついてる。そんな姿で一緒に取引先へ行くの、正直言って恥ずかしいのよ」 ――恥ずかしいか。 その一言が、胸の奥に突き刺さった。 20年間。 俺は清香のために、夜遅くまで料理を作ってきた。 彼女が会社を立ち上げたばかりの頃には、あの店を守りながら必死で働いて、彼女が最初に事業を始めるための金まで作った。 それなのに。 清香は成功した今になって、俺の身に染みついた匂いを「恥ずかしい」と言う。 俺は深く息を吸った。 目の奥が熱くなるのを感じながら、それを必死にこらえる。 「……好きにすれば」 それだけ言って、俺は背を向けた。 寝室に入り、静かに鍵をかける。 次の瞬間、リビングから大きな音が響いた。 彼女が八つ当たりをして、物に当たっている音だった。 続いて、清香の怒鳴り声が聞こえてくる。 「高橋樹!本気で言ってるからね! 明日、見てみなさい!あんな店、全部壊してやるから!」 俺はドアに背を預け、そのままゆっくりと床に座り込んだ。 ポケットから、パリ行きの航空券を取り出す。 あと2日だ。 清香、お前はもうすぐ、俺のことを気にしなくてよくなる。 お前が嫌っていた、この「恥ずかしい匂い」も、もう二度と嗅がなくて済む。 翌朝。 俺は中心街の公証役場へ向かった。 そこで、店の持ち分のうち50パーセント――つまり俺が持っていた分を、以前から店を買いたいと言っていた経営者に無償で譲った。 すべての書類にサインを終えた、その直後だった。 スマホが激しく震え始めた。 店の現場を任せている佐藤大輔(さとう だいすけ)からの電話だった。 「樹さん!早く来てください! 桐谷社長が大勢連れてきて、店をめちゃくちゃにしてるんです! ここを改装して、フランス菓子の店にするって……今、店の中のものを全部外に放り出してます!」 俺はスマホを握る手に、思わず力を込めた。 ――清香。本当に容赦がないな。 俺は通りに出ると、タクシーを止めた。 そして運転手に、できるだけ早く店へ向かうよう告げた。 第3章 遠くからでも、すぐに目に入った。 母が昔、自分の手で書いた店の看板が、泥だらけの道に無造作に捨てられている。 そのすぐそばでは、怜司が清香の傘の中に立ち、鼻をつまみながら、店から運び出されてくる鍋や食器を嫌そうに眺めていた。 「清香、ここもかなり汚れてるけど……本当にこんなところ、スイーツの店にできるの?」 「大丈夫よ、怜司。ちゃんと業者を呼んで隅々まで消毒するから。床のタイルだって全部剥がして、新しく張り替える。油の匂いなんて、少しも残さないわ」 清香の声は、ひどく優しかった。 昨夜、俺に怒鳴りつけていたのと同じ人間とは思えない。 俺は人をかき分けるようにして店の中へ飛び込んだ。 そこで真っ先に目に入ったのは、ゴミの山の一番上に放り出されていた、古い木箱だった。 あれだけは、絶対に失くすわけにはいかなかった。 中に入っているのは、母さんから受け継いだ秘伝のレシピだけじゃない。 清香が15歳のとき、俺のためにナイフで彫ってくれた、木製のへらも入っている。 あのとき、清香は手を切って血を流しながら、それでも笑っていた。 「樹。いつか料理長になったら、私が手伝ってあげる」 俺は何も考えず、その木箱に飛びついた。 「樹!何してるの!」 清香が俺の腕をつかみ、そのまま強引に引き戻した。 足元がふらついた。 次の瞬間、俺は油で汚れた水たまりの中に倒れ込んでいた。 膝を割れたタイルに強く打ちつける。 鋭い痛みが走った。 「うわっ!」 怜司が驚いて声を上げ、嫌そうに一歩後ずさった。 「清香……こいつ、すごく汚れてる。俺に近づけないで」 清香はすぐに怜司を自分の後ろにかばい、倒れている俺を見下ろした。 「樹、何をそんなにムキになってるの? 昨日も言ったでしょう。私は、この店を閉めるつもりなの」 俺は清香の言葉を無視した。 手と膝をつきながら、必死に木箱のほうへ這っていく。 けれど、もう遅かった。 ちょうどそのとき、ゴミ収集車がバックで入ってきた。 作業員たちが、そこに積まれていたゴミを容赦なく運び、ゴミ収集車へ放り込んでいった。 「やめろ!止めてくれ!あれには母さんの形見が入ってるんだ!」 俺は声が枯れるほど叫びながら、作業員を止めようと駆け寄った。 けれど、清香が後ろから俺の腰にしがみつき、必死に押さえ込んだ。 「もうやめて、樹!ただのガラクタでしょう? そんなもののために、ここまで騒いで恥をかくつもり?」 ――バキッ。 乾いた音がした。 俺は目の前で、木箱がゴミ収集車の荷箱に押し潰されていくのを、ただ見ているしかなかった。 あの木箱に入っていた木べらが、真っ二つに折れる。 俺たちが幼い頃から積み重ねてきた時間まで、引き裂かれたような気がした。 木べらはそのまま、ゴミ収集車の中へ落ちていった。 母さんの黄ばんだレシピも、同じように押し潰されていく。 その瞬間、俺の中で何かが切れた。 周りの音が、急に遠くなった。泣くことも、叫ぶこともなかった。 俺はただ、そこに立ち尽くしていた。 清香に腕を引かれるまま、道端まで連れていかれる。 そんな俺を見て、清香のほうが不安そうな顔をした。 手を離すと、少し慌てたような声で言う。 「樹……そんな顔しないで。 レシピなんて、また作ればいいじゃない。腕のいい料理人を探して、同じものを作ってもらえばいいでしょう? それに、あんな古い木べらなら……明日、デパートで純金のやつでも買ってあげる。ね?」 俺はゆっくりと顔を上げた。 目の前にいるのは、俺が20年間、ずっと愛してきた女だった。 清香は知らない。 あのレシピには、もう一つ、大切なものが挟まっていた。 清香の母親が、亡くなる前に娘へ宛てて書いた一通の手紙。 俺はその手紙を、10年間ずっと大切に保管してきた。 本当は、来月の清香の30歳の誕生日に、プレゼントとして渡すつもりだった。 長い間、心の奥に抱えていたわだかまりを、少しでも解いてやりたかった。 それなのに。 今はもう、何も残っていない。 俺は、ふっと笑った。 「そうか。じゃあ、清香。純金のやつ、忘れるなよ」 清香は俺の笑顔を見つめた。 なぜか、背筋がぞくりとしたようだった。 清香が恐る恐る手を伸ばしてくる。 けれど俺は、顔をそらしてその手を避けた。 第4章 「白石が待ってるんだろ。俺の体についた料理の匂い、あいつに嗅がせないほうがいい」 俺は壁に手をつきながら、足を引きずるようにして立ち上がった。 怜司が近づいてきて、俺にティッシュを差し出した。 けれど、その目には勝ち誇ったような挑発の色が浮かんでいた。 「高橋さん、清香のこと責めないでよ。清香だって高橋さんのためを思ってるんだから。 男なのに毎日料理の匂いをまとってたら、これからどうやって嫁さんもらうの?」 俺はそのティッシュを受け取らず、ただ冷たく怜司を見つめた。 「白石。そんなに生活の匂いが嫌いなら、一生それとは無縁でいられるよう、せいぜい祈ってろ」 そう言い残し、俺は雨の中へと歩き出した。 背後から、清香の取り乱した怒鳴り声が飛んでくる。 清香が叫んだ。 「高橋樹!今日ここを出ていったら、もう二度と私の家に入れないから!」 俺は振り返らなかった。 足を止めることもなかった。 アパートに戻ると、俺は自分の荷物をきれいに片づけた。 いつも着ている服と、ル・コルドン・ブルーから届いた合格通知以外は、何一つ持っていかなかった。 がらんとした部屋を見渡す。 ここで暮らした5年間を、最後にもう一度だけ目に焼きつける。 玄関には、清香が一番気に入っていた女物のスリッパを残したままにした。 キッチンでは、清香が大好きだった、胃に優しい鶏肉と大根のあっさり煮をまだ煮込んでいた。 俺はダイニングテーブルまで歩き、メモ用紙を1枚取り出した。 そして、短く1行だけ書いた。 【鍋に料理を入れてある。冷めないうちに飲め】 書き終えると、俺はそのメモの上にここの鍵を置いた。 それからスーツケースを引き、振り返ることなく部屋を出た。 3日目。 フランスへ発つ日が来た。 その日は、どういうわけか雲ひとつない快晴だった。 まぶしいほどの陽射しが、かえって涙を誘う。 空港の待合室で、俺はスマホの画面に映る清香のアイコンを見つめていた。 昨日から今まで、清香からメッセージは1通も届いていない。 電話も、1度もなかった。 きっと清香は、俺がまたいつものように意地を張って、家出をしたふりをしていると思っているんだろう。 どうせすぐに俺のほうから折れて、適当に機嫌を取れば、それで済む――そう思っていたに違いない。 搭乗案内が始まり、席を立とうとしたそのとき、スマホが突然鳴った。 清香からだった。 俺は少し迷った。 それでも、通話ボタンを押した。 清香が苛立った声で言った。 「樹!いったい何をしてるの? 昨日は1日帰ってこないし、今日は電話にも出ないじゃない!」 電話の向こうからは、怜司のわざとらしい笑い声と、周りの連中が囃し立てる声まで聞こえてくる。 「清香、早くケーキ切ろうよ!みんな待ってるよ!」 そこで、俺はようやく気づいた。 今日は怜司の誕生日だった。 清香は、あの大切な男の誕生日を祝っている。 その一方で、俺はたった1人、空港で海外へ向かう準備をしていた。 「別に、何もしてないよ」 窓の外を離着陸する飛行機を眺めながら、俺は静かに答えた。 「清香、ただ伝えておこうと思って。鍋の料理、もう傷んでるかもしれない。食べないほうがいい」 清香が一瞬、黙り込んだ。 次の瞬間、冷たい笑い声が返ってきた。 「樹、そういう嫌味を言って私を困らせるの、やめてくれる? 家出したくらいで、探しに行くとでも思ってるの? いい?これ以上、まだ意地を張るっていうなら、私たちは本当に終わりだからね!」 俺は小さく口角を上げた。 それなのに、涙が何の前触れもなく手の甲に落ちた。 「……わかった」 俺はそれだけ言って、迷うことなく通話を切った。 スマホの電源を落とし、SIMカードを抜く。 そして、そのまま近くのゴミ箱へ捨てた。 清香。 俺たちは、とっくに終わっていた。 お前が母の形見を、潰させた瞬間から。 お前が俺に染みついた匂いを、汚らわしいものでもあるかのように嫌がっている瞬間から。 俺たちは、もう二度と元には戻れない。 俺はスーツケースを引き、大股で搭乗口へ向かった。 飛行機が離陸した、その瞬間。 遠く離れた中心街では、清香がアパートのドアを開けていた。

More GoodNovel Novels