プロモーションを読み込み中...
心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った
心不全と診断され、私・篠宮栞(しのみや しおり)と養妹・小林陽菜(こばやし ひな)は同時に入院した。 けれど、私たち二人に適合する心臓は、たった一つしかなかった。 その移植の機会をめぐって、私と陽菜は3か月もの間、争い続けた。 病院の廊下で、両親の不公平な扱いを問い詰める私の姿を映した動画も、いつの間にかネットで拡散されていた。 誰もが私を、自分が生き延びるためなら家族の情さえ顧みない、身勝手で非情な女だと罵った。 手術の日程が決まった前日、兄の篠宮湊(しのみや みなと)が珍しく私の病室を訪ねてきた。 病室の入口に立つ兄の顔には、隠そうともしない苛立ちが浮かんでいた。 「陽菜はまだ20歳だ。これから人生が始まるんだぞ。 お前は昔から体が弱かっただろ。たとえ手術を受けても、あと何年生きられると思ってる?」 私が口を開くより先に、兄のスマホが鳴った。 電話の相手は陽菜だった。彼女は泣きながら、私がまだ移植の機会を譲ろうとしないのかと兄に尋ねていた。 兄は途端に声を和らげ、優しく陽菜をなだめた。 「大丈夫だよ。兄ちゃんがいるから。 陽菜のものは、誰にも奪わせない」 子供の頃、私が初めて心臓の発作を起こしたとき、兄は私を背負って3キロも走り、病院まで連れて行ってくれた。 あのとき、兄は私の手を握りながら、たとえ自分の命と引き換えにしてでも、絶対に生かしてみせると誓ってくれた。 それなのに今、見慣れているはずの彼どこか他人のように見えた。 そんな兄を見つめながら、私はふと、もう争うのはやめようと思った。 「いいよ、兄ちゃん。 その心臓、もういらないよ」
チャプター (1)
第1章
心不全と診断され、私・篠宮栞(しのみや しおり)と養妹・小林陽菜(こばやし ひな)は同時に入院した。
けれど、私たち二人に適合する心臓は、たった一つしかなかった。
その移植の機会をめぐって、私と陽菜は3か月もの間、争い続けた。
病院の廊下で、両親の不公平な扱いを問い詰める私の姿を映した動画も、いつの間にかネットで拡散されていた。
誰もが私を、自分が生き延びるためなら家族の情さえ顧みない、身勝手で非情な女だと罵った。
手術の日程が決まった前日、兄の篠宮湊(しのみや みなと)が珍しく私の病室を訪ねてきた。
病室の入口に立つ兄の顔には、隠そうともしない苛立ちが浮かんでいた。
「陽菜はまだ20歳だ。これから人生が始まるんだぞ。
お前は昔から体が弱かっただろ。たとえ手術を受けても、あと何年生きられると思ってる?」
私が口を開くより先に、兄のスマホが鳴った。
電話の相手は陽菜だった。彼女は泣きながら、私がまだ移植の機会を譲ろうとしないのかと兄に尋ねていた。
兄は途端に声を和らげ、優しく陽菜をなだめた。
「大丈夫だよ。兄ちゃんがいるから。
陽菜のものは、誰にも奪わせない」
子供の頃、私が初めて心臓の発作を起こしたとき、兄は私を背負って3キロも走り、病院まで連れて行ってくれた。
あのとき、兄は私の手を握りながら、たとえ自分の命と引き換えにしてでも、絶対に生かしてみせると誓ってくれた。
それなのに今、見慣れているはずの彼どこか他人のように見えた。
そんな兄を見つめながら、私はふと、もう争うのはやめようと思った。
「いいよ、兄ちゃん。
その心臓、もういらないよ」
第1話
私が移植の機会を諦めると言うと、病室には数秒間、静寂が落ちた。
最初に我に返ったのは兄だった。
彼は眉をひそめて私を見つめ、まるで私がまた何か企んでいるのではないかと疑っているようだった。
「本気で言ってる?」
私はうなずいた。
「本当だよ」
私がそう言うと、廊下の奥で待っていた母・篠宮美和(しのみや みわ)が早足に病室へ入ってきた。
ずっと外で話を聞いていたのだろう。目はまだ赤かったが、その顔には安堵の色が隠しきれていなかった。
「栞、ママは知ってたわ。あなたはやっぱりいい子だね」
母はベッドの端に腰を下ろし、私の手を取ろうとした。
私は無意識に手を引いた。
母の手が宙で止まり、その表情にはたちまち気まずさが浮かんだ。
父・篠宮恒一(しのみや こういち)は軽く咳払いをし、その場を取り繕うように口を開いた。
「決めたなら、もう後から気が変わったなんて言うな。
医者も、陽菜の体はもうこれ以上待たないと言っているから、移植の同意書は今日中にサインしたほうがいい」
最初から、書類まで用意してあったんだ。
分厚い書類の束が、私の目の前に置かれた。
その一番上にあったのは、「心臓移植候補者資格の自主的辞退に関する同意書」だった。
私はそこに記された「自主的」という文字を見つめ、ふと笑いたくなった。
この3か月、彼らは代わる代わる私を説得した。
母は、陽菜はまだ若いのだから、姉として私が譲るべきだと言った。
父は、たった一つの移植枠をめぐって家族が争っているなんて、世間に知られれば篠宮家の恥になると言った。
兄は、私の医療費を打ち切り、介助をしてくれていた人まで引き上げた。
それどころか、私が陽菜から生きるチャンスを奪おうとしているというネット上の声を、否定しようともしなかった。
そして今、ようやく私が折れた。
だから彼らは、私の気が変わらないうちに、すべてを決定的なものにしようとしていた。
私はペンを取り、一枚ずつ書類に署名していった。
兄はそばに立ったまま、じっと私の手元を見つめていた。
最後の書類に署名を書き終えた瞬間、彼の強張っていた表情がようやく緩んだ。
「それでいい」
書類を回収すると、兄はわずかに声を和らげた。
「陽菜の手術が終わったら、海外の病院も探してあげるから」
私はベッドの脇に置かれた病状説明書に目をやり、小さな声で尋ねた。
「もし、それまで待てなかったら?」
兄は一瞬、言葉に詰まった。
だが、答えるより先に、スマホから陽菜の弱々しい泣き声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……胸が、すごく痛いの……」
兄の表情が一瞬で変わった。そして、私の問いに答えることもなく、そのまま病室を飛び出していった。
父と母も慌ててその後を追った。
誰一人、振り返らなかった。
ましてや、モニターが突然けたたましい警報音を鳴らしたことにも、誰も気づかなかった。
当直の医者が駆け込んできたとき、私は痛みに耐えきれず、体を丸めていた。
処置が終わったあと、医者はベッドの脇に立ち、厳しい表情で言った。
「篠宮さん、今のあなたの心機能は、小林さんよりも低下しています。
そもそも今回の移植の機会は、病状の緊急性から、あなたが優先されていたものです。一度辞退すれば、次に適合するドナーが見つかるまで、あなたが待てるかどうか、誰にも保証はできません」
私は真っ白な天井を見つめながら、尋ねた。
「……あと、どれくらい生きられますか?」
医者はしばらく黙っていた。
「長く見積もって、一か月です」
突然、病室の外から歓声が上がった。
壁越しに、嬉しさのあまり泣き出した母の声がはっきりと聞こえてきた。
「陽菜、あなたのものになったわね!
助かるのよ!」
私は体を横に向け、顔を枕に埋めた。
今日は、私の24歳の誕生日だ。
両親も兄も、忘れていた。
そうね。今日は本当におめでたい一日だ。彼らは今日、ずっと欲しがっていたものを、ようやく手に入れた。
スマホが震えた。陽菜から写真が届いていた。
写真の中には、両親と兄に囲まれていた陽菜の姿だった。
青白い顔には、まるで勝者のような笑みが浮かんでいた。
【お姉ちゃん、生きるチャンスを私に譲ってくれてありがとう】
第2話
翌朝、看護師が私の処置をしに来たとき、母がスープジャーを持って病室に入ってきた。
懐かしい匂いがして、私は思わず目を瞬かせた。
心不全と診断されてから、私は何を食べても吐いてしまうようになった。
そんな私のために、母は毎日、味を変えながら栄養食を作ってくれた。
あの頃、母はベッドのそばに座り、一口ずつ私に食べさせながら、目を赤くして言っていた。
「栞が元気になれるなら、自分の寿命を十年縮めてもいい」
でも今は、母からあんなに心に響く言葉を聞くことは、もう二度とない。
「陽菜のお守り、ここにない?」
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「ないよ」
「そんなはずないでしょ?昨日、陽菜はここに来た後、帰ってからお守りがないことに気づいたって言ってるの」
母は私の言葉を信じず、引き出しを次々と開けていった。
薬のケースや検査結果の書類、そして子供の頃の私の写真まで、母は無造作に脇へ寄せていった。
その中の薬瓶の一本が床に落ち、ベッドの下へ転がっていった。
私はベッドの縁に手をつき、拾おうと身を乗り出したが、目の前が突然真っ暗になり、危うく倒れそうになった。
母はそれを見ると、眉をひそめた。
「昨日、先生はもう助かったって言ってたじゃないの?
どうしてまだそんなに弱ってるの?」
私は顔を上げて、母を見た。
そうか。母にとっては、救急処置で助かったのなら、もう大丈夫なのだ。
これまで、私が手術室から生きて戻るたび、彼らは次もきっと同じように助かるのだと思っていた。
「お母さん、私、もう1か月も生きられないかもしれない」
母の手が止まった。
けれどすぐに、何事もなかったかのようにクローゼットの扉を閉めた。
「先生って、いつも一番悪い可能性から話すものなのよ。
あなたが18歳のときも、危ない状態だって言われたじゃない?それでも今まで生きてこられたでしょ?」
母はスープジャーのふたを開け、スープを器に注いだ。
私は心のどこかで、馬鹿みたいな期待をしてしまった。
けれど次の瞬間、母はその器を手に取り、病室を出ていこうとした。
「陽菜はね、今日はあんまり食欲がないみたいなの。せっかく時間をかけて作ったんだから、少しでも飲んでもらわないとね。
栞も飲みたいなら、あとお手伝いさんに持って来てもらうから」
ドアが閉まったあと、私は誰もいない病室で、しばらくぼんやりと座っていた。
ベッドの下へ転がり込んだ薬瓶は、結局、看護師が拾ってくれた。
私の顔色が悪いのを見て、看護師は温かい牛乳を一杯用意してくれた。
「どうしてご家族に付き添ってもらわないの?」
私は目を伏せた。
「みんな、忙しいからね」
陽菜の入院手続きに忙しくて、手術後のリハビリ施設を探すのに忙しい。
そして、陽菜が元気になったあとの人生を、あれこれ思い描くのにも忙しいのだ。
午後、私の個室に突然、数人のスタッフがやってきた。
彼らは何も言わずに私の荷物を片づけ始めた。
私はそのうちの一人を呼び止めた。
「何をしてるんですか?」
「篠宮恒一様から、病室を移るように頼まれています」
話を聞きつけた看護師長が駆けつけてきて、どこか気まずそうな顔をしていた。
「小林さんは手術前ですから、できるだけ安静にしておく必要があるんですが、上の階には空いている個室がなくて……
それで、お父様が栞さんは大部屋でも構わないとおっしゃっていて」
私の荷物は2つの段ボールに詰め込まれた。
そのとき、荷物の中から1枚の家族写真が床に滑り落ちた。
それは、私が15歳の誕生日に撮った写真だった。
あの頃、陽菜がこの家に来て間もなく、おずおずと一番端に立っていた。
母は私を抱き、父と兄は左右から私の頭にバースデーハットをかぶせてくれた。
あれが、私を中心に撮られた最後の家族写真だった。
スタッフが車椅子を押して私を移動させていると、ちょうど陽菜の新しい病室の前を通りかかった。
ドアにはピンク色の風船がたくさん飾られていた。
父は陽菜のためにプロジェクターの位置を調整し、母は花を一本ずつ花瓶に生けていた。
そこへ兄が外から戻ってきた。手には、陽菜が一番好きなケーキを持っていた。
私を見ると、兄の足が一瞬止まった。
「どうしてベッドから降りたんだ?」
私は、自分のすべてが詰め込まれた段ボール箱に目をやった。
「病室、移ることになってね」
兄は今になってそのことを思い出したように、一瞬、気まずそうな表情を浮かべた。
「陽菜は手術前になると不安になりやすいからね、静かな環境で過ごしたほうがいい
お前は体が弱いから、大部屋のほうが看護師にもすぐ対応してもらえるし」
私は何も言わなかった。
すると、陽菜が病室の中から顔を出した。
「お姉ちゃん、だったらやっぱり、ここに泊まっていいよ」
そう言いながら、陽菜は母の腕にぎゅっとしがみついていた。
母はすぐに彼女をなだめるように言った。
「変なこと言わないの。これはお父さんが決めたことだから」
兄も私に視線を向け、釘を刺すような口調で言った。
「栞、移植の機会はもう陽菜に譲ったんだろ。こんな些細なことで陽菜を不安にさせるな」
――そうか。私の病室なんて、些細なことなのか。私の命も、そうだったね。
私は6人部屋の、入口に一番近いベッドに案内された。
隣の患者の家族が、私に付き添いがいないことに気づくと、親切にもシーツを敷いてくれた。
夜の9時、陽菜がSNSに投稿した。
写真には、ケーキを囲んだ4人の家族が写っている。
兄が自ら陽菜の頭にバースデーハットをかぶせ、両親は笑いながら願い事をするよう促している。
投稿には、こう書かれていた。
【私がここに来てから2回目の誕生日を先に祝い。これからは毎年、みんなで一緒に過ごそうね】
私は写真を拡大した。
テーブルの上にあるケーキは、私が一番好きな塩キャラメルチーズ味だった。
その隣には、星のブレスレットまで置かれていた。
半月ほど前、兄が今年の誕生日プレゼントは何が欲しいかと聞いてきたとき、私はそのブレスレットの写真を送ったんだ。
兄から返ってきたのは、たった一言だった。
【子供っぽい】
――そうか。子供っぽかったわけじゃない。彼らはただ、こんなものが私なんかにふさわしくないと思っていただけなのだ。
ほどなくして、兄からメッセージでスマホが鳴った。
【陽菜が、そのブレスレットはお前が欲しがってたものだって言ってた。しかし陽菜もすごく気に入ったみたいだから彼女にあげた。これで彼女に詰め寄ったりするなよ】
私はしばらく画面を見つめたあと、一言だけ返した。
【わかった】
どうせ私が死んだら、家にある私のものは全部、陽菜のものになる。
早かろうが遅かろうが、何が違うっていうんだろう。
第3話
6人部屋に移されて3日目、病院の会計窓口から電話がかかってきた。
預かり金の残高が不足しているという。
私は一瞬、言葉を失った。
これまで父が私の入院費として十分なお金を用意してくれていたからだ。
しかし、係員が確認したところ、残高は昨日の午後に引き出されたらしい。
私は父に電話をかけた。
長くコール音が続いたあと、ようやく父は電話に出た。
向こうからは、輸入の抗拒絶反応薬の価格について話し合う声が聞こえてきた。陽菜が時折何か言うと、父は丁寧に答えていた。
彼らの会話がひと段落してから、ようやく父は私がまだ電話の向こうにいることを思い出したようだった。
「私の入院費、引き出されたんだけど……」
父は気にする様子もなく言った。
「陽菜が術後に使う薬は保険適用外だから、ちょっとそっちから回しただけだ。
君は今、保存療法だろ。そんなにお金はかからない」
私は会計から届いた請求書をぎゅっと握りしめた。
「でも、先生は私、ICUに入る必要があるって……」
父は2秒ほど黙った。次に口を開いたとき、その声にはもう苛立ちが滲んでいた。
「栞、うちの金だって、湧いて出てくるわけじゃないんだぞ。
これまで君の治療に、いくらかかったと思ってる?自分でも分かってるだろ。
陽菜には、これが一度きりのチャンスなんだ。少しくらい分かってやれないのか?」
私にとっても、これが一度きりのチャンスなんだと言いたかった。
けれど、そのとき電話の向こうで、陽菜がふいに「お父さん」と呼んだ。
父はすぐに電話を切った。
結局、費用の支払いは医者が病院側に掛け合い、猶予してもらうことになった。
その日の夜、兄が病室にやってきた。
彼は入ってくるなり、1つのベルベットの箱をベッドの上に放り投げた。
「ブレスレットのこと、陽菜に何か言ったのか?」
私は箱を開けた。
あの星のブレスレットは、2つにちぎれていた。
「お前が欲しがってたって知ったら、陽菜がどうしても外して返すって言って無理に外そうとして、そのときに壊しちまった」
兄の口調は、まるでわがままな子供を叱るようだった。
「栞、陽菜はもうすぐ手術なんだぞ。わざわざ罪悪感を抱えたまま手術を受けさせたいのか?」
私は彼を見つめながら、ふと、ひどく疲れた気持ちになった。
陽菜が涙をこぼせば、悪いのは決まって私だった。
私は箱を兄のほうへ押し返した。
「持って帰って。もういらない」
兄の顔がさらに曇った。
「また何を怒ってるんだ?」
「陽菜が元気だった頃は、お前に何一つ張り合ったことなんてなかっただろ。今は同じ心不全で苦しんでるんだぞ。少しくらい譲ってやれないのか?」
私は思わず笑った。
「私の両親も、兄も、病室も、入院費も、それに生きるチャンスまで、全部譲ったよ。
まだ足りないの?」
兄の顔から、さっと血の気が引いた。
周りの患者たちも、次々とこちらを振り向いた。
彼は声を潜めて、私を脅すように言った。
「まるで家族全員がお前に借りでもあるみたいな言い方をするな。
ここまで生きてこられたのだって、父さんと母さんと俺がいたからだろ。もし俺たちがいなかったら、お前は24歳まで生きられたと思う?」
その言葉が落ちたあと、病室は静まり返った。
私は見慣れた兄の顔を見つめながら、ふと7歳の頃を思い出した。
初めて発作を起こしたあの日、兄は私を背負って3キロも走ってくれた。
彼の背中にしがみつきながら泣いて、「もう二度と、兄ちゃんに迷惑をかけない」と言った。
すると兄は、目を赤くしながら「馬鹿なこと言うな」と叱った。
自分のたった一人の妹なんだから、迷惑なんかじゃないって言った。
それなのに、いつからだろう。私が1日長く生きることさえ、家族が私に与えてくれる恩恵になっていた。
兄も、自分の言葉がきつすぎたことに気づいたらしい。
彼は顔をそむけ、少しだけ口調を和らげた。
「陽菜の手術が無事に終われば、家族もお前のことをちゃんと面倒見られるようになるから。
ここまでずっと耐えてきたんだ。あと数日、我慢できないわけがないだろ」
また、「耐える」という言葉だ。
私が何度も痛みに耐えてきたから、彼らは私が決して倒れないと思っていた。
何度も手術台から目を覚ましてきたから、死ぬなんて、ただ人を怖がらせるための言葉にすぎないと思っていた。
兄が出ていったあと、私は切れたブレスレットをゴミ箱に捨てた。
翌日、看護師が採血に来たとき、私が血を吐き始めていることに気づいた。
医者は強く家族への連絡を求めたから、私は兄の電話番号を伝えた。
1回目、誰も出なかった。
2回目、直接切られた。
6回目になって、ようやく電話がつながった。
医者が私の状態を説明し終わらないうちに、兄が遮った。
「数日前まであんなに元気だったのに、急に悪化するわけがないでしょ。
今日は陽菜の術前検査があるんだから、どうしてもそっちを離れられません」
医者は怒りのあまり、声を荒らげた。
「篠宮栞さんの心機能は、すでに危険なレベルまで低下しています!彼女はいつ心原性ショックを起こしてもおかしくない!」
兄は一瞬、沈黙した。
「……すみませんが、先に彼女のことをお願いします。
陽菜の検査が終わり次第、すぐに向かいますので」
それから、夜が更けるまで待ち続けた。
深夜1時になって、ようやく兄がやってきたけど、私に会いに来たわけではなかった。
兄は私の棚から、銀色のお守りを取り出した。
それは、祖母が亡くなる前に私に残してくれたものだった。
兄は、明日の陽菜の手術に持たせて、無事を祈りたいのだと言った。
私は手を伸ばして箱を押さえた。
「これは、おばあちゃんが私に残してくれたものだよ」
兄は一瞬、戸惑った。
何もかも譲ってきた私が、まさか拒むとは思っていなかったのだろう。
「数日だけだ」
「やだ!」
「栞!」
兄の怒鳴り声が、病室中の患者を目覚めさせた。
私は必死にお守りを握りしめた。
しかし兄は、私の指を一本ずつ無理やりこじ開け、お守りを奪い取った。
「陽菜は明日、手術台に上がるんだぞ。そんなものも惜しいのか?
彼女が無事に終われば、ちゃんと返してやる」
箱の蓋が閉まった瞬間、私の爪が割れ、血が手のひらを伝ってぽたぽたと落ちた。
兄はそれを見たけど、ほんの一瞬足を止めただけだった。結局、そのお守りを持ったまま、病室を出ていった。
第4話
陽菜が手術を受ける日、その年初めての雪が降った。
まだ夜も明けないうちから、父と母、そして兄は陽菜の病室の前に待機していた。
母は陽菜の髪を整え、父は医者に何度も手術のリスクを確認していた。
兄はベッドのそばにしゃがみ込み、私のものだったお守りを陽菜の首にかけた。
「怖がらなくていいよ。
みんな、ずっと外で待ってるよ」
私は廊下の反対側に立ち、静かにその光景を見つめていた。
誰も、私の体調も悪くなっていることに気づかなかった。
深夜、急性心不全を発症し、私はICUに運び込まれた。
医者から、もう普通の病室では対応できない状態だと言われた。そして、危篤状態に伴い、手術や集中治療などの処置に関する同意書への署名も求められた。
しかし、誰も私の家族と連絡が取れなかった。
看護師は、私自身で家族を探すしかないと言った。
数歩歩いただけで、心臓が激しく痛んだ。
息をするたび、錆びた刃が胸の奥をゆっくりとかき回されているような苦しみがあった。
最初に私を見つけたのは母だった。母は足早で歩み寄り、私の腕を支えた。
私は一瞬、ぼんやりとした。
「栞、ちょうどよかったね。
陽菜が手術室に入る前に、あなたから一言、許してあげるって言ってほしいの」
私は視線を落とした。
陽菜は移動用のベッドに横たわり、兄の手をぎゅっと握っていた。
目を赤くしたまま、陽菜が私を見つめて言った。
「お姉ちゃん、あの移植の機会を手放したくなかったこと、分かってる。
もし、もっと待てるなら……私、絶対にお姉ちゃんと取り合ったりしなかった」
母はぽろぽろと涙をこぼした。
「陽菜はいい子だね、あなたのせいじゃないよ」
父も眉をひそめ私を急かした。
「栞、陽菜が心残りを抱えたまま手術室に入るようなことはするな」
私は胸の痛みに耐えきれず、何も言えなかった。
けれど、彼らは私が許そうとしないのだと思ったらしい。
兄は立ち上がると、私の腕を乱暴につかんで脇へ引き寄せた。
「こんな時に、まだ騒ぐつもりか?」
その拍子に、私の腕が壁に強くぶつかって、懐に入れていた病状説明書が落ちた。その書類には、私がかつて重篤な状態に陥ったことが記されていた。
兄が視線を落とした。
紙の一番上には、私の名前がはっきりと印刷されていた。
彼の表情が、そこで凍りついた。
「……これは、どういうことだ?」
「先生が……」
私は何度も苦しそうに息を吸い、ようやく声を絞り出した。
「家族の……サインが必要だって……」
兄はその紙を拾い上げたけど、内容を読み始めようとしたそのとき、陽菜が突然、泣きながら兄を呼んだ。
「お兄ちゃん、怖いよ!」
兄はすぐに振り返った。
そのうえ、医者からも手術の時間が迫っていると急かされていた。
兄は慌ててその紙を折りたたみ、そのままポケットに押し込んだ。
「お前は先に病室へ戻ってろ。
陽菜が手術室に入ったら、俺が先生のところへ行く」
私は兄を見つめて言った。
「……本当に来てくれるの?」
兄はさらに眉をひそめた。
「栞、俺がいつお前に嘘をついたの?」
私は、兄に何も言わなかった。
24歳の誕生日を一緒に過ごすと約束したのに、兄は来なかった。
ブレスレットを買ってやると言ったのに、最後には陽菜の腕につけられていた。
祖母のお守りも返すと言ったのに、それも陽菜の胸元に掛かっているんだ。
兄の約束は、もうとっくに私のものではなくなっていた。
看護師が陽菜の乗ったストレッチャーを押し、手術室へと運び入れた。
手術中を示す赤いランプが灯った瞬間、家族はみんなそちらに集まった。
私は一人、壁に手をつきながら、一歩ずつ病室へ戻っていった。
曲がり角まで来たとき、母の低い声が聞こえた。
「さっきの書類……あれ、危篤に関わるものじゃなかった?」
兄はしばらく黙っていた。
「あいつは、前にも危篤になったことがある」
父が小さくため息をついた。
「あの子は小さい頃から体が弱くて、毎回、大変そうに見えても、結局は乗り越えてきただろう。
今は陽菜のほうに集中しよう。
栞なら、いつも耐えられるんだ」
私はその場に立ち止まり、心拍数が急激に落ちていくのを感じた。激しい痛みに息ができなくなり、視界がぼやけ始めた。
私は感覚を失い、除細動器が何度も胸に押し当てられるのだけを感じていた。
ぼんやりとした意識の中で、幼い頃の自分が見えた。
あの時、私は病院のベンチに座り、胸には電極が貼られていた。
母は私を抱きしめて泣き、父は一晩中ベッドのそばで眠らずに付き添っていた。
兄は半年間貯めた小遣いで、私にウサギのぬいぐるみを買ってくれた。
みんな、私が生きていればそれでいいと言ってくれた。
その後、私は本当に何度も、生き延びてきた。
だから彼らは、いつしか私の苦しみに慣れ、私の強さにも慣れた。
そして、何かを選ぶたびに、私を切り捨てることにも慣れてしまった。
モニターが、耳をつんざくような長い音を発した。
もう、誰も陽菜と争う人はいない。
手術室の外では、陽菜の手術成功の知らせが伝えられていた。
母は嬉しさのあまり泣き出し、父は何度も医者にお礼を言った。
そのとき、兄の手がポケットの中の、忘れられた書類に手を触れた。
彼は紙を取り出し、開いた。
そこに医師が書き記した一文を読み取った瞬間、兄の顔から、血の気が一気に引いた。